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屋敷 だんだん、慣れてくるとこんなものかなと。昔のタイトル戦は対局開始直後に時間を止めて、カメラマンの撮影用に初手を何度も指したんですよ。着手する瞬間を収めるためだと思いますが、いまのタイトル戦はやらなくなりましたね。

1977年の棋聖戦の写真。中原誠名人(当時、左)が大山康晴棋聖とタイトルを争った。当時はカメラマンの撮影用に初手を何度も指したという ©文藝春秋

「高校は単位がギリギリでどこでやめようかと常に考えてました」

――屋敷九段の話を伺っていると、淡々としていた印象を受けるんですが、当時は1、2歳上の羽生世代が活躍し始めたときですよね。それを意識したことはないんでしょうか。

屋敷 ないです。羽生さんも森内さんも年上ですし、力が違いました。中原先生との戦いに無我夢中でしたので、あんまり感じませんでした。

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――高校在学中のタイトル挑戦なので、学校との両立は大変でしたか。高3の1989年度は46勝19敗で、関西将棋会館の対局だと前後は移動日になります。学校を休む日も多かったと思いますが。

屋敷 厳しかったです。自分から入った高校なので卒業したかったですが、単位がギリギリでどこでやめようかなと常に考えてました。対局が増えるのはありがたいんですけど、それにひたすら明け暮れた感じでした。対局が忙しすぎて、学校に休みにいくようなものでしたよ(笑)。同級生とは学校で話すだけで、ほとんど遊んだことはなかったです。先生に助けてもらって、何とか卒業できました。

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©山元茂樹/文藝春秋

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