6 事件で変わってしまった私の生活
事件後は、実家で過ごし、自宅に戻るのに1年かかりました。事件の現場が自宅でしたので、事件直後は、捜査の関係で、しばらく自宅に入ることもできませんでした。警察から自宅に入っていいと言われた後も、現実逃避というか、そこに立ち寄ると色々なことを思い出して怖い、という気持ちがあり、なかなか家に戻れませんでした。家が家族の思い出そのものであり、そこに行くと自分が耐えられないように思いました。
事件前は、朝6時半頃起きて仕事に行き、夜帰るという生活だったのが、夜は眠れないので、朝も9時頃になってようやく起きられるという感じになりました。食事は妻に全面的に頼っていましたので、妻がいなくなってからは、朝食はお米だけ炊いて納豆で食べたり、レトルト食品で済ませるようになりました。昼食と夕食はほとんど外食になってしまいました。事件前は、タバコは1日10本程度でしたが、今は1箱半くらい吸ってしまいます。
事件から1年くらいは、毎日、死んで楽になりたいと思っていました。一度に妻子3人を亡くした気持ち、分かっていただけるでしょうか。
一番辛い時間帯は、夕方以降です。昼間は出かけたり何かの用事をしていますが、夜になって誰とも会話をしないので、ひどい孤独感にさいなまれます。辛くなってしまうので、家族のことは思い出さないようにしていますが、精神的に余裕がある日は、たまに写真を見たりもします。家族のことは本当は思い出したいです。いつもいつも考えていたいのです。でも、辛いから思い出さないようにしているという相反する気持ちの中で、私はもがき苦しんでいます。
事件の後から、仕事には行けていません。月に1回だけ出社して、会社の産業医と話をして、手続き関係のことを済ませるだけです。また、週1回、支援センターでカウンセリングを受けており、それは事件後からずっと、今も続いています。
7 いなくなってしまった妻子への思い
3人のうち、最初に妻が殺されたようです。妻は、きっと被告人と戦ったと思います。日頃から、痴漢にも立ち向かうタイプで、「男の人にも負けない」と言っていましたし、その場に娘たちがいたのであれば、必死で娘たちを守ろうとしたと思います。私は、妻が戦う姿を思い浮かべて辛くなります。その場に自分がいたら絶対に助けてあげられたのに、ということは常に思います。
また、幼い娘たちはどんなに辛かっただろうか、怖かっただろうかと思います。もしかして、2人一緒にいて、どちらかが殺されるのを見ていたかもしれません。その時、娘たちはきっと「パパ助けて」と叫んだと思います。恐怖で声にできなかったとしても、心の中で叫んだことでしょう。私がそこにいたら助けられたのに、という思いは今でも消えません。なぜ、私はそこにいなかったのでしょうか。美咲、春花、パパが助けてあげられなくてごめん。
娘たちが通っていた小学校は、私の母校でもありました。今でも校長先生が月命日に墓参りしてくれます。校長先生は、命日や運動会など、折に触れてこの事件のことを児童に話してくれているそうです。