「そんなに男が好きなら娼妓に売ってしまう」
父が畳屋をやめ、一家は埼玉・坂戸へ。そこでも男と遊んでいたため、父は怒って「そんなに男が好きなら娼妓に売ってしまう」と言い出した。のちに、父は懲らしめるためだったと家族に言っていたという。
父は遠縁に当たる横浜の稲葉という男のところに定を連れて行き、斡旋を頼んだ。この男はあとあとまで定と因縁が続くが、彼の紹介から始まる定のその後の遍歴をまとめると次のようになる。
「横浜の芸妓屋で芸者」
「別の横浜の芸者屋で芸者」
「富山市の芸妓屋で芸者」
「長野・飯田町の芸妓屋で芸者」
「大阪・飛田遊廓の妓楼で娼妓」
「名古屋市の妓楼で娼妓」
「大阪・松島遊廓で娼妓」
「京都・丹波篠山の妓楼で娼妓」
「神戸でカフエーの女給」
「神戸で高等売春婦」
「大阪で高等売春婦」
「大阪で妾(男3人)」
「東京・三ノ輪で高等売春婦」
「東京で商人の妾」
「横浜で高等売春婦」
「政友会院外団員の妾」
「名古屋の小料理屋で女中」
「別の名古屋の小料理屋で女中」
「東京・浜町で高等売春婦」
大宮校長と知り合ったのは名古屋の最初の小料理屋で、大宮は定と関係を続けながら更生するよう繰り返し説得。「小料理屋をやらせるから、どこかで料理を修行しろ」と言われて働いたのが石田吉蔵の経営する「吉田屋」だった。
妓楼とは売春公認地区の店。「高等売春婦(予審調書での本人の表現は「高等淫売」)」というのは、街娼ではなく、非公認の売春宿に所属する娼婦のことだろう。
こうしてみると、場所と職業は少しずつ違っていても、性を商品とする女性の世界のすさまじさに驚かされる。定はそういう世界を行き当たりばったりで生きた果てに吉蔵と出会った。
「生まれて初めて知った恋に身をやかれるように…」に秘められた過去
「手記」では初めて出会ったときからひかれ、「生まれて初めて知った恋に身をやかれるようになって夜もすがら眠れぬ幾夜が続くようになりました」と書いている。あれだけ男を渡り歩いてきた女が、とも思うが、定はそれまで出会った男とは違うと繰り返し語っている。彼女には初めての真実の愛と思えたのだろう。逆にいえば、それまで定が知った男は、彼女を食いものにするだけの、ろくでもない男たちだったということになる。「私とあの人の仲は、エロ本などに書けない美しい恋愛なのです。どうして他人などに分かりましょうか」(手記)。
定が吉田屋で働き始めてから吉蔵と親しくなるのに時間はかからなかった。店の座敷で一緒にいるところを別の女中に見られ、外で逢引きするようになる。その揚げ句の4月23日の家出だった。