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驚異的な記憶力であけっぴろげに語られた予審調書

 阿部定は1936年6月13日、起訴された。取り調べは警視庁から予審判事の手へ。

 予審とは旧刑事訴訟法で、刑事被告人を公判に付すかどうかを判断するため判事が審理するシステム。1人の判事が担当し、非公開で弁護人も立ち会わないので悪評が高かった。

 しかし伊佐千尋「予審調書が語る阿部定の愛と性」(「文藝春秋スペシャルイシュー88『「昭和」の瞬間』所収)は「阿部定事件に関する限り、調書の記載はかなりの真実味があるように思われる」と評価する。

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 予審担当の正田光治判事が8回にわたって尋問。生い立ちから流転の人生、犯行に至るまで、定は驚異的な記憶力であけっぴろげに語っている。

 その予審調書について、粟津潔・井伊多郎・穂坂久仁雄「昭和十一年の女 阿部定」は「実に見事に語られ、通読する者の心を捉えて離さない」「供述書という形式を借りた、定の遥かなる叙事詩とでもいうおか」と絶賛。確かに、一読して告白文学と呼べる迫真力を持っている。

 一方では「エロ本」として読むことも可能で、ひそかに持ち出されて印刷され、売買されたといわれるのも不思議ではない。

「どてら裁判」は予審調書について「その記録を見る前に、記録を預かっていた書記はもちろん、その他の人が相当数見たとみえ、記録には手あかがついていた」と書いている。同書によれば、細谷裁判長は、予審調書を読んで性的興奮を起こさないよう、事前に両陪席判事にそれとなく、それぞれの妻の生理日を聞いたうえで、その日を外して公判日を決めたという。その予審調書から定の生い立ちを見よう。

「ふざけているうち、その学生に関係されてしまいました」

 明治38年、東京市神田区新銀町(現千代田区神田司町2丁目と神田多町2丁目)の畳職人の家に3男4女の末娘として生まれた。内弟子のほか外からの職人が出入りする裕福な家。兄姉と年が離れていたので、両親にかわいがられ、甘やかされて育った。

 派手好きな母には6歳ぐらいから三味線や踊りを習わされ、職人たちからは「きれいだ」と言われて、気取り屋でわがままな娘になった。学校は大嫌い。家に大人が多いことから、ませた子どもだった。

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 小学校卒業後、裁縫を習うなどしていたが、15歳のころ、友達の家に遊びに行っているうち、ある大学生と親しくなり、「ふざけているうち、その学生に関係されてしまいました」(予審調書)。阿部定が戦後出版した「阿部定手記―愛の半生」では、誘惑と興味とうぬぼれに負け、「ある青年の誘惑にかかり」「とうとう処女を捧げてしまいました」と書いている。

「もう嫁には行けない」とやけくそになって、家から金を持ち出しては浅草などの盛り場で遊ぶようになり、複数の男とも関係ができた。女中奉公に出されたが、その家の物を持ち出して警察に連れて行かれた。