その夜、山口はつや子に「いつまでもこんなことをしていても仕方があるまい。おれの叔父がやっている八宝亭で女中を探しているが、やってみないか。いい金になるぞ」と誘った。何とか堅気の商売に戻りたいと焦っていたつや子は、だまされるとは知らず、親切な客だと山口の言葉を信じ翌21日、山口に言われた通り「太田成子」の偽名で八宝亭を訪ね、住み込み女中として働くことになった。
その晩、つや子は階下3畳の女中部屋で寝ていた。22日午前5時ごろ、主人たちの部屋で「ドタンバタン」と異様な物音がするのを聞いて目を覚ました。もう主人が起きて仕事をしているものと思い、慌てて服を着て布団をたたんでいると、山口が部屋に入ってきた。「お早いですね」と声を掛けると、彼は薄笑いを浮かべながら「2階に来い」と無理に2階の4畳半に連れて行かれた。ピシャリとふすまを閉め切った山口は恐ろしい形相で「この前、おまえと遊んだときの不足分だ」と言って1000円(2017年換算約7000円)握らせた。そして、持っていた革かばんから永楽信用組合の通帳を取り出し「金を下げてこい」と命令した。
これはただごとではないと思った彼女は「いやだ」と一度は断ったが、「殺すぞ」と脅かされた。その恐ろしさのあまり、山口の言葉に従って午前7時ごろ、裏木戸から店を出て、途中「柳ずし」ですしを食い、次に「平野洋品店」に立ち寄り、マフラーなどを買ったりして時間をつぶし、永楽信用組合に行き、金を払い戻そうとしたが、認印が違うと事務員に断られた。これを山口に伝えようと思ったが、怖いので通帳は破って道路に捨て、そのままタクシーで新宿の旅館に逃げ帰った。24日の夜、旅館へ山口が来て「話があるから」とつや子を誘い出そうとしたが、つや子はこれを断った。
25日に実家へ帰ったが、家族の話から事件の詳細を知り、自分がなぞの女「太田成子」として警察に追われていることが分かった。大島刑事が訪れたときも全てを告白しようと思ったが、母親を驚かせてはと思い、自首を渋っていたという。
「恐るべき二重人格の殺人魔」
“太田成子”を逮捕す 築地事件急速解決せん
築地八宝亭の一家殺し捜査本部では、10日正午ごろ、静岡県田方郡西豆村大字八木沢、西野吉助娘、西野ナツ(23)=太田成子?=を千代田区麹町三番町付近で逮捕。麹町署に任意出頭の形で取り調べたところ、八宝亭コック山口常雄に頼まれ、21日午後4時ごろ、同家に住み込み、翌日、永楽信用組合に14万2000円を引き出しに行ったと自供した。この自供に基づき、本部では午後5時50分、山口を本部に連行。取調べを開始した。
毎日は3月10日に出した号外でこう報じた。名前の「つや子」を「ナツ」と誤っているが、地元の静岡新聞も11日付紙面では「夏子」としている。
同日付朝日は「山口、犯行を自供」と報道。「ただ一人の“生き証人”であった山口自身が“主犯”であったという、スリル小説もどきの急転解決をみせるに至った」と書いたが、記事の内容を見ると、「(山口は)係官の厳重な追及にも黙秘権を行使していたが、夜10時すぎに至ってついに『全部申し上げます』と頭を垂れ、『ただ非常に疲れているから休ませてほしい。一休みして気分がよくなったら、全部お話しします』と申し出た」というだけ。「本部では、山口のこの発言は既に“自供の一部”に入ったものとみ、山口が主犯であることは確信しているが、ともかく10時半には一応取り調べを打ち切って留置した」と述べている。