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「だまされたんです!」“二重人格の殺人魔”を信じてしまった女中の涙

「だまされたんです!」“二重人格の殺人魔”を信じてしまった女中の涙

――劇場型犯罪の“草分け”!? 「八宝亭事件」 #2

2021/02/14
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 12日付朝刊では「郷里の愛人にも告白」の見出しで、山口の遺書が同日朝、郷里の隣村である茨城県東茨城群長岡村(現茨城町)の女性(21)に配達されたのを、同紙の記者が書き取ったとしてその内容を書いている。「私のことは新聞やラジオで知ったことでしょう。〇〇〇ちゃんはかわいい。申し訳のないことをしてしまった。自分のことは忘れてくれ。生きている気がなくなった。幸いを祈ります」。この女性の母親は「縁談に差しさわりがある」と言ってすぐ焼き捨ててしまったという。

真相を解明できないまま事件は事実上終わった(毎日)

 3月13日付夕刊朝日は「山口はなぜ殺したか」という記事を掲載。捜査当局の見方をまとめている。動機については「山口は非常に見栄坊で、小さな中華料理店のコック風情に満足できず、平素からこんな仕事はイヤだイヤだと言っていた。田舎から金を送ってもらって近く中華料理店を開業するなどと同僚に語っていたというが、結婚を望んでいた隣村の女性の信用を得るためにもそうしたかったらしい。山口のような異常性格者にとっては、そのような言動が自らを縛り、どうしてもまとまった金を手に入れなければならないとの考えに追い込まれ、ついに非常手段を選んだのではないか」との見方。

 犯行の手口は「金を盗むことが主目的で、殺人は派生的だとみている。現場の状況からみて、室内を物色しているとき被害者らに発見され、殺害したとみられる。山口の計画としては、金を盗んでその罪を住み込ませた女中、西野つや子に負わせようとしたものらしい」とした。

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 山口が二重人格かどうかという論議もあった。いずれにしても、本人が自殺してからでは後の祭り。3月13日付夕刊毎日は「山口の仮面を剥ぐ」という記者座談会を掲載。「山口としては極めて大胆であったことが結局当局をだましおわせたわけだな」などの発言が出たが、自己弁護に終わった印象だ。事件はあっという間に紙面から消えた。ただ西野つや子はこの年の6月、懲役1年執行猶予3年の刑が言い渡された。

「節穴の眼を持った警官たち」

 いまの視点から見ても、この事件での警察の失態は数えきれない。

 山口の部屋の現場検証と逮捕後の身柄保護はもちろん、事件後、山口に監視も付けず、新宿の旅館に逃げ帰ったつや子を訪ねたのを見逃すなど、考えられない。やはり事件関係者としての山口に対する扱いが甘かったというべきだろう。

「月刊読売」1951年4月号で精神医学者の竹山恒寿・慈恵医大講師(のち教授)は事件を取り上げた論評に「節穴の眼を持った警官たち」の見出しを付けた。「警視庁史 昭和中編(上)」も「この事件は、発生後17日目に山口を逮捕し、せっかく真犯人を逮捕しながら、その真相を解明することができず、世論の厳しい非難を浴びて終止符を打った」と指摘。3月13日付夕刊毎日1面コラム「短針」は「同居人の部屋の検証もせず、犯人には自殺され、天網は相変わらず快々だが、警網不快」と書いた。「天網恢恢疎にして漏らさず」(どんな小さな悪事でも天罰は免れない)をもじった警察批判だ。

 それには、刑事警察の弱体化という、この時期特有の事情もあったかもしれない。

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 戦争による警察予算の削減、警察官の損失に加えて、戦後の荒廃で刑法犯件数が増加した。巡査から警察署長まで上り詰めた大橋秀雄「ある警察官の記録」には「GHQ(連合国軍総司令部)が警察力の弱体化を図った」「戦時中や終戦直後に採用された警察官にはいかがわしい者も少なくなかった」などと書かれている。

 1948年に旧警察法が、1949年には新刑事訴訟法が施行され、民主警察がうたわれた。それでも、それまでの自白偏重の古い捜査手法から急激に転換するのは難しかった。捜査員の思い込みと科学軽視の風潮は根強くはびこっていた。この事件でも「お目見え強盗殺人」という事件性の派手さに引きずられ、山口の供述に頼りすぎたといえる。一つ分からないのは、山口の“証言”を基に造られたモンタージュ写真が実際の西野つや子によく似ていたこと。なぜ山口は似せないようにしなかったのだろうか。

 新聞もえらそうなことは到底いえない。この事件の経緯をみても、山口がクロかシロかの論議に捉われすぎて、冷静で慎重な状況判断ができなかった。ある局面においては、山口と気の合う記者、山口に気に入られた記者が取材の主力になったのだろう。結果的には特ダネ競争に追われてみっともない報道になってしまった。といって、70年後のいま、同じような事件が起きたとして、もっとまともな捜査や報道ができているかどうか……。

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【参考文献】
▽「新明解国語辞典 第六版」 三省堂 2005年
▽住本利男編「毎日新聞の24時間」 鱒書房 1955年
▽ 警視庁史編さん委員会「警視庁史 昭和中編(上)」 1978年
▽岩田政義「鑑識捜査三十五年」 毎日新聞社 1960年
▽守屋恒浩「犯罪手口の研究」 立花書房 1977年
▽毎日新聞社会部編「事件の裏窓」 毎日新聞社 1959年
▽戸川猪佐武「素顔の昭和 戦後」 角川文庫 1982年
▽「戦後史大事典 増補新版」三省堂 2005年

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