「頭がハゲる」と真剣に逃げ回った小学生たち
さらに実験の結果はマグロ漁船や水産業界だけでなく、一般国民の日常生活にも深刻な影響を与えるようになる。
「5月ごろになると、放射能の混じった雨が日本列島、特に太平洋岸の各地に降るようになった」(「岩波ブックレット 第五福竜丸」)。同書によると、各地の大学や研究所に雨やチリの放射能測定が始まり、観測ネットワークが作られた。
「本格的に放射能雨が確認されたのは5月半ば以後のことである。鹿児島大学から5月14日の雨に毎分1リットル当たり4000カウント、5月16日には1万5000カウントの放射能を検出。京都大学でも16日の雨に8万6760カウントの測定。その他の大学からも続々と雨水中の高い放射能価が報告された」(同書)
科学研究所が土壌からも核分裂生成物が検出されたと発表。その後、5月16日前後からの雨の中に含まれている放射性物質は人工のもので、その原因は太平洋の彼方だとの見解を示した。
私はこの年の4月に千葉県の小学校に入学した。“放射能マグロ”は遠い世界の出来事だったが、いったん小雨でも降ると、「頭がハゲる」と焦り、軒下を探して逃げ回った。それは核という、目に見えず得体の知れないものに対する真剣な恐怖だった。
当時、太平洋岸の子どもの多くがそうだったのではないだろうか。このビキニ被爆をヒントに怪獣映画「ゴジラ」が生まれるが、あの映画を見たときの重い衝撃はその体験と密接に結び付いたものだったような気がする。
奇跡は二度と起こらなかった
入院中の第五福竜丸乗組員の病状はなかなかよくならなかった。
3月30日には中泉教授が「23名は現在最悪の段階」と発表。5月ごろには回復が見られたが、久保山無線長は肝臓障害による黄疸が激しく、重体に陥った。
一時回復したものの9月23日。「主治医は光るまなざしで家族に最期を告げた。久保山さんのお母さんは、小さな体をベッドにすり寄せてすがった。『愛吉、約束が違う、違うじゃあないか』。久保山さんは数日前、お母さんに『大丈夫だ、元気になるよ』と言っていた。『お父ちゃあん』。奥さんと3人の子どもたちの呼ぶ声が、張り詰めた病室の空気を切り裂くように響いた」(「死の灰を背負って」)。
翌9月24日付朝日夕刊は2面全面を使って報じた。
久保山さん遂に死去 死因は「放射能症」
奇跡は二度と起こらなかった。第五福竜丸無線長・久保山愛吉さん(40)=静岡県志太郡東益津村浜当目483=は、重体から奇跡的に持ち直したのもつかの間、再び悪化して23日午後6時56分、東京都新宿区戸山町の国立東京第一病院3階南病棟11号室で「放射能症」によりついに死去。その旨同7時、病院から発表された。「ビキニの灰」事件以来半年余、水爆実験による初の犠牲者を出したのである。同病院には深い悲しみと暗い興奮が渦巻いている。悲痛な空気が病院から国中へ、そして全世界へ、一夜のうちに広がっていった。
この日の紙面にはなかったが、久保山無線長は「『原水爆の被害者は私を最後にしてほしい』という言葉を遺して息を引き取った」(「岩波ブックレット 第五福竜丸」)という。
「日本側がアメリカ医師の診断と治療を許していたら死ななかったのでは」
直後にはアメリカ原子力委員である下院議員が「日本側が原子力委員会のアメリカ医師の診断と治療を許していたら死ななかったのでは」と発言。翌1955年3月、同委員会幹部が「久保山氏は黄疸と肝臓病で死亡したのであり、放射能が原因ではない」との見解を示し、同年8月、国防次官補も公式の声明でそれを追認した。