その間も事態は動いていた。アリソン大使は3月19日、ビキニ被災に必要な補償をすると声明。3月20日には東大総合調査団団長の都築正男・名誉教授らが、問題の灰の中から4種類の核分裂生成物を確認。乗組員の症状は「医学的には急性放射能症で、いわゆる原爆症ではない」(3月20日付読売夕刊)と発表した。
3月21日付読売夕刊は1面に大きく、東大病院に入院した乗組員2人の写真を掲載。3月22日の衆院厚生委員会では、都築名誉教授が「23人の漁夫の10%は死亡するかもしれない」と「“水爆的”重大発言を行った」(3月23日付読売朝刊)。3月24日、「福竜丸問題に関する日米連絡協議会」で患者の治療は日本側が責任を持つことが決定。3月25日には、第五福竜丸を日本政府の管理下に置くことが決まった。
国際社会へ与えた大きな衝撃
事件に衝撃を受けたのは日本だけではなかった。金子敦郎「核と反核の70年」は書いている。
「ビキニ水爆実験に参加した科学者や軍関係者は、太陽を真っ暗にした爆発力に恐れおののいた。報告を受けた米国や英国、それにソ連の指導者も、水爆がジェノサイド兵器どころか、人類と地球の運命まで握っていることを思い知った。ソ連のマレンコフ首相は『文明の終わり』と驚きの声を上げ、ソ連に対して先制的な原爆攻撃を主張していたチャーチルも、何発かで英国は無人の地になると警告し、その後は核戦略で柔軟姿勢に転換した」
新聞紙面にもそれは表れた。3月27日付朝日朝刊は「ビキニ水爆と英の世論」の見出しで「これ以上の水爆実験はやめよ」などとイギリスのメディアが主張し始めたと報道。3月27日付朝日夕刊は1面トップで「米、次の水爆実験に慎重」と伝えた。
しかし、アメリカ原子力委員会は3月29日、第2回の水爆実験を3月26日からマーシャル群島で実施し、成功したと発表した。
3月27日、第五福竜丸は危険区域外にあり、事件に対して日本側に全く手落ちがなかったとする日本政府の調査結果がアリソン大使に伝えられた。それに対して、アメリカ側は直接意思表示はしなかったが、4月9日、アリソン大使が事実上受け入れを表明。焦点は補償問題に移った。
3月28日には、焼津で入院していた乗組員21人がアメリカ軍用機で東京に移送され、東大付属病院と国立東京第一病院に収容された。
この間にも数多くの放射能を浴びた船と魚が発見された。
川崎昭一郎「岩波ブックレット 第五福竜丸」によれば、船は北海道から沖縄まで太平洋岸の全都道府県に登録されており、特に多かったのは高知、神奈川、静岡、和歌山。漁獲した魚を廃棄した漁船は、1954年末までに856隻、廃棄された魚は485.7トンに及んだという。
風評被害でマグロをはじめ、魚の価格が暴落した。新聞には原子力と放射能に関するさまざまな企画記事が載った。「水爆不安は解消するのか」(3月20日付読売朝刊)、「水爆の脅威 時には全地球が危険」(3月22日付毎日朝刊)、「魚……心配ご無用 “ビキニのぬれぎぬ”マグロをめぐって」(3月24日付朝日朝刊)……。学者の見解も悲観論と楽観論を行き来する一方、新聞は、原子力と放射能の知識が乏しい読者を啓蒙するのに必死だった印象だ。
水爆実験による被害は、海上保安庁の調査船「俊鶻(こつ)丸」の5月から2カ月近くに及ぶ調査で証明された。ビキニ海域で海水やプランクトン、魚から高濃度の放射能を検出。予想を覆して、ビキニ環礁から1000~2000キロ離れた海域でも海水や魚が放射能に汚染されていることが分かり、世界に衝撃を与えた。