一方、補償交渉は名目や財源などで難航したが、1955年1月3日、アメリカ政府が慰謝料200万ドル(当時約7億2000万円)を支払うことで妥結した。1月4日付朝日夕刊には「政治的解決 法律問題はタナ上げ」との見出しが見られる。他の乗組員は1955年5月、1年2カ月にわたる入院生活を終えて退院した。
事件の衝撃と水爆のその後
事件の衝撃もあって、水爆の開発は事実上ストップした。
「各地で市民の中から自発的、自然発生的に水爆実験禁止や原子兵器反対の署名運動が始められた」「公民館長の永井郁・法政大教授を囲んで読書会を開いていた東京・杉並の母親の学習グループは『水爆禁止署名運動協議会』をつくり、1954年5月9日に呼び掛け、1カ月余りで区民の7割の署名を集めた」(「岩波ブックレット 第五福竜丸」)。原水爆禁止運動の始まりだった。
同書によると、8月には署名を集計する全国協議会が結成され、署名は12月には2000万人を突破。翌1955年には第1回「原水爆禁止世界大会」が広島で開催される。第五福竜丸の“犠牲と功績”といえるだろう。
その後、原水禁運動は分裂。海外から逆輸入する形で「反核運動」が広がり、現在に至っている。第五福竜丸は東京水産大の練習船として使われた後、1967年に廃船となり、東京・夢の島に放置された。1968年にそのことが報道されて保存運動が起き、「東京都立第五福竜丸展示館」として現存する。また、「死の灰」によるマーシャル諸島住民の被害も明らかになり、ロンゲラップ島では1984年に住民全員が離島した。
広島、長崎から約9年…根付かなかった原爆被害の実情
それでは、いまの視点から見て、第五福竜丸事件とは何だったのだろう。
事件直後、1954年3月20日付朝日朝刊の「声」欄には、MSA協定などと絡め、「食卓の魚にまで放射能の心配をせねばならぬほど身近に、本当に身近に体験したことは、われわれにあらためて日本の将来を真剣に考えさせるという点で大きな意義があった」という学生の投書が載った。
3月26日付読売朝刊の専門家による座談会では桶谷繁雄・東京工大助教授(のち教授)が「こんなものすごい武器ができた、下手をすると人類が滅亡する、そういう問題です」「今度の第五福竜丸の事件は世界中の人々を考えさせたことでしょう」と述べている。当時の感覚がつかめる。