しかし、そのこと自体が、まだ9年近くしかたっていなかった原爆被害の実情が、広島、長崎以外の国民に根付いていなかったことを示している。占領期は原爆に関する報道が規制され、独立後も、広島、長崎以外では「平和教育」は限定的にしか行われなかった。
「ビキニ後」も「放射能雨」の恐怖はわずかな期間で消え失せ、「資源小国」のハンデから原子力平和利用が声高に叫ばれて原発政策が推進された。ビキニから57年後の2011年、東日本大震災で東京電力福島第一原発事故が発生。メルトダウン(炉心溶融)の危機は一時深刻だった。だが、地元以外のどれだけの人がその恐怖を実感し、いまも持ち続けているだろう。
風評被害は冷静・公正な報道と合理的な理解が不足しているからこそ起きる。そのことは第五福竜丸の“原爆マグロ”騒ぎからも明白だ。
あの時あの場所にいなければ
ジャーナリスト浦松佐美太郎は「世界」1954年6月号掲載の「第五福竜丸の存在」という文章で広島、長崎の被爆に触れ、こう書いている。
「恐怖の記憶は過去の戦争の出来事として、その生々しさを失おうとしかけている時に第五福竜丸の遭難事件が突発したのであった。過去の恐怖がもう一度、ギラギラと光る生々しさをもって、一足飛びによみがえってきた。しかも今回の事件は広島、長崎の場合と違い、爆弾による直接の被害ではなく、爆発によって吹き飛ばされた『灰』という、捉えどころのない間接の被害だっただけに、日本人が心に感じた恐怖も一層深刻であったと言い得るのである」
しかし、主に報道について彼は指摘する。彼はアメリカ側の「スパイ説」を取り上げ「(それなら)日本人は日本権益と日本人の自由を主張する立場から報道していいはずであった」と述べる。そして次のように指摘している。
「第五福竜丸の事件には、一つの重大な意味があったはずである」「もしあの時、あの場所に第五福竜丸がいなかったらば、という仮定の上に立ってもう一度考え直すことは今でも必要だと思われる」。その言葉はいまも意味を持っている。
【参考文献】
▽大石又七「死の灰を背負って 私の人生を変えた第五福竜丸」 新潮社 1991年
▽広田重道「第五福竜丸―その真相と現在」 白石書店 1989年
▽「読売新聞百年史」 読売新聞社 1976年
▽「読売新聞八十年史」 読売新聞社 1955年
▽佐野眞一「巨怪伝」 文藝春秋 1994年
▽庄野直美編著「ヒロシマは昔話か」 新潮文庫 1984年
▽「時事年鑑1955年版」 時事通信社 1954年
▽金子敦郎「核と反核の70年」 リベルタ出版 2015年
▽川崎昭一郎「岩波ブックレット 第五福竜丸」 岩波書店 2004年