日本刀で相手の腕を切り落とし、窃盗で数億円を荒稼ぎ——。1980年代後半に中国残留孤児2世、3世を中心に結成され、その凶悪さから恐れられた半グレ集団「怒羅権」。その創設期のメンバーで、13年間刑務所に服役した筆者・汪楠(ワンナン)氏の著書『怒羅権と私 創設期メンバーの怒りと悲しみの半生』(彩図社)が話題だ。
「包丁軍団」と呼ばれた怒羅権の荒れ狂った活動の実態から、出所後に犯罪から足を洗い、全国の受刑者に本を差し入れるプロジェクトを立ち上げるまでの壮絶な人生を描いた汪氏の自伝から、一部を抜粋して転載する。(全6回の6回目/#4、#5を読む)
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逮捕されても「反省の念や罪悪感は一切なかった」
逮捕されたとき、反省の念や罪悪感は一切ありませんでした。私は確信犯であり、職業として犯罪をしていると、いざ逮捕されてもそのような感情を抱くことはないのです。それどころか社会で他に行き場がない人に仕事を与えることで、人助けをしているという気持ちさえありました。私の犯行の被害者の多くは企業と銀行ですから、保険で穴埋めできるので誰も傷つけていないではないか、とすら考えていたのです。
この心境は裁判を経て刑務所に収監され、月日が経つにつれて変わっていきますが、まずは逮捕直後のことから述べていきたいと思います。
詐欺罪を主として全部で10件の起訴があり、金額は約2億円でした。私の余罪をすべて合わせれば10億円以上の被害があったはずですが、検察が起訴できると判断した事件がこの2億円分の10件だったのでしょう。
逮捕されてから一審の判決がでるまで、3年近くかかりました。詐欺は法解釈が複雑なため、取り調べや裁判に時間がかかることが多いのですが、私の場合は斬新な手口が多かったのでさらに時間を要したのだと思います。
当初私は、怒羅権の事件をよく担当している顔なじみの弁護士たちを雇っていました。職業犯罪者の弁護を専門に行う証拠隠滅のプロたちです。
彼らの手腕は舌を巻くもので、あらゆる法律のテクニックを使って凶悪犯の刑期を短くします。私は当初、裁判で争う気でおり、彼らを使って無罪を勝ち取るつもりでした。
事情が変わったのは、未決のまま1年ほど過ぎた頃のことです。
運命を変えた「ある弁護士との再会」
私が逮捕されたことは中国残留邦人の事件を専門とする人権派弁護士の間でも噂になっていました。ある日、その分野でも著名な石井小夜子弁護士が面会に来てくれたのです。
面会室で向き合い、その声を聞いたとき、自分の心がすっと落ち着くのがわかりました。同時に、今回の逮捕で自分がさらされていたストレスがいかに大きなものだったのかをこのときになって初めて実感したように思います。
実は、石井先生と会うのはこれが初めてのことではありません。出会ったのは16歳の頃です。その後もたびたび世話になり、成人してからは会うことがなかったので実に8年ぶりの再会でした。
10代の私にとって、石井先生はいままで会ったことのないタイプの大人でした。彼女は当時30代、その頃から人権派で、少年犯罪の弁護や中国残留邦人の支援活動に熱心に取り組んでいました。
石井先生に本格的にお世話になったのは確か17歳の頃、強盗の容疑で取り調べを受けたときのことです。