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「出所後も怒羅権の仲間と交流する。それでも犯罪はしない」なぜ元幹部は“半グレ”に戻らず更生の道を選んだのか?

『怒羅権と私 創設期メンバーの怒りと悲しみの半生』#6

2021/03/20
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 8年ぶりに再会した石井先生は、あの強盗容疑の一件の頃と変わらず、私の話にしっかりと耳を傾けてくれました。留置場での面会を重ねるうちに、これまでのこと、好きな本の話など事件とは関係のないことも数多く話すようになりました。そしてこの出会いによって、罪に対する私の考え方は大きく変わっていきます。(略)

「私の中にも阿Qはいます」

 ある日、石井先生が何気なく持ち出した話題で、私はハッとしました。

 先生は中国の作家、魯迅の『阿Q正伝』について語り始めたのです。

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 この作品の主人公である阿Qは、家も金もなく無知ですが、傲慢でプライドが高いというバランスを欠いた人物です。殴られるなどひどい目に頻繁にあいますが、そのたびに都合のいい解釈をして、現実を直視しようとしません。やがてはその無知と浅はかさによって、流されるままに処刑されてしまいます。

『阿Q正伝』は私が中国で暮らしていた頃からの愛読書であり、なにより私はひそかに阿Qの惨めな姿に自分を重ねていました。

 そして、石井先生は言いました。

「私の中にも阿Qはいます」

 彼女のこの言葉に、私はとても感じ入るものがありました。阿Qとは人の愚かさや醜さの象徴であり、それが自分の一部であると認めることは心の強さが必要です。この人を信じられるのではないか、という思いが生まれ始めました。

汪楠氏 ©️藤中一平

「このまま処刑されていいのか?」

 そしてもう1つ重要な心境の変化が生まれました。

 それは「このまま処刑されてよいのか」というものです。

 阿Qは、無知ゆえに流されるまま処刑されました。なぜ自分が処刑されたのか理解すらしていなかったでしょう。

 社会は私が罪人だといいますが、先述の通り私は罪悪感もなければ反省もしていません。自分の罪を理解することなく、刑罰を受けるのは、阿Qと同じなのではないかと思うのです。それは悪徳弁護士を使って刑から逃れようという意味ではありません。社会がいうその罪というものを直視することが私の人生において必要なのではないか、ということです。

©️藤中一平

 罪を直視するには、自分の過去を振り返り、時間をかけながら理解していくほかありません。膨大な作業であり、客観的にそれを見てくれる信頼できる他者が傍らにいることが不可欠なことでした。

 私は「この作業につきあってくれますか」と先生に尋ねました。

「協力する」と先生は言いました。

 すぐにそれまでの弁護士との契約を切りました。国選弁護人として石井先生が私の弁護を担当することになりました。裁判の戦略について話したことはほとんどありません。刑期を軽くするための工作はしなくてよい、という話を最初の接見でしました。(略)

 服役の間、先生を通じてさまざまな人と文通をしたり、面会をしたりして知り合いました。そうして生まれた人の輪は100人以上にもなり、現在の私の礎になっています。その第一歩を踏み出すきっかけは紛れもなく石井先生との再会でした。(略)

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