組織の経年劣化? それとも…
しかし、読者の中にはこう考える人もいるだろう。それは平安時代に入り、律令体制が弛緩することによって初めて生じてきた問題だろう。当初はきちんとやっていたのではないか――。何事も経年劣化ということはある。この朝賀儀も無断欠席の状況が年々悪化してきたという面はむろんあるだろう。
だが、それでは、律令国家の草創期には、官人たちがみな一人残らずきちんと出席し、儀式が滞りなく行われていたのだろうか。研究者も含めて、私たちは漠然とそう考えがちだ。しかし、一歩踏み込んで考えてみると、これは根拠に欠けた希望的観測である。最初はうまくいっていたはずだ、という思い込みにすぎない。官人たちがみな怠けることなくこぞって出席し、整然と一糸乱れぬ拝礼と拝舞を行う。そのようにさせる文化や社会規範は、七世紀末から八世紀初めの律令国家草創期にはまだ存在していない。そんな時代に完璧な朝賀儀が行われたと期待する方が無理であろう。
サボタージュは歴代天皇の「見慣れた光景」
朝賀儀は平安時代に入っていきなり官人たちの無断欠席が始まったのではない。鍵を握るのは六位以下官人だ。延暦21年(802)、政府は五位以上の無断欠席だけに制裁を科すことにして、六位以下についてはまったく咎めなかった。不可思議な措置である。しかし、これは六位以下については、すでに無断欠席が常態となっていて、政府もこの儀式への全員出席までは求めていなかった。そう考えれば合点がいく。
朝賀儀が挙行される朝庭は本来、五位以上のための空間だった。だから、朝賀儀は五位以上が全員出席し、六位以下は儀式の威儀が損なわれない程度に出席していればよい。それが慣例ではなかったか。
ところが、六位以下だけではなく、肝心の五位以上の無断欠席も目立つようになった。そこで彼らに制裁を科して出席を強要しはじめる。ただし、六位以下の方はまだ咎めるには及ばなかったので、そのまま放置を続けた。しかし、その後、六位以下の無断欠席が無視できないほどに増加。儀式の威儀を損なうどころか、儀式そのものが危うい状況となった。そこで、ようやく六位以下への制裁に踏み切ったのである。
この間の経緯は以上のように読み解くべきだ。だから、歴代天皇にとって、儀式の場での官人たちのサボタージュは、程度の差こそあれ、実は見慣れた風景だったのではないか。筆者はそう想像するのである。