チンドン屋
パチンコ店の新装開店や、町の商店街の歳末大売り出しのたびに、チンドン屋の姿は見られた。路地を股旅(またたび)スタイルの男性二人と着物姿の女性一人が、クラリネット、三味線、ドラムなどを演奏しながら、S字形に練り歩く。ときに楽器は太鼓やサキソフォーンであったり、女性は明治時代の洋装姿であったりする。猥雑なパチンコの音とともに、活気があって、人間の匂いのする光景である。
その歴史は古く、明治22年頃に関西で職業として成立するようになった。このとき「東西(とざい)トーザイ。このたびご近所に日本一の品ぞろえの八百屋さんができました」という口上から「東西屋」と呼んだ。東京ではチンドン屋と呼んだが、仲間同士では省略して「どんや」と呼んだ。
2500人いた最盛期 いまは…
素人には難しい仕事で、通常ドサ回りの役者が失業して行うことが多かった。昭和に入り戦前には、股旅スタイルのチンドン屋が増えた。映画の流行で、旅役者たちが参入したためである。やがてトーキー映画の時代になると失業した活動弁士や楽士もチンドン屋になった。ときには歌舞伎の女形が三味線を弾くこともあった。第二次世界大戦後になると、特需景気もあって、宣伝に力を入れる業者も増え、昭和30年代にはチンドン屋の数は全国で2500人にものぼった。
この頃は15人ほどで連隊を組んでいたが、ギャラは楽士が一番高い。演奏は大変な労働で、しかも目立つ「どんや」の顔だからである。昭和20年代には、車に広告を出して宣伝する宣伝カーが走り出し、強敵になった。40年代のテレビの普及で、コマーシャルなど宣伝スタイルが多様化すると、以後チンドン屋は減少していく。昭和50年代前半は、東京にはまだ100人近くがいたが人数も減ったので、連隊は組めず、3人で行うことが多くなった。
現在、職業としてのチンドン屋は全国で60人ほどしかいないと言われる。一方で若者がチンドン屋に関心を示し、ミュージシャン、俳優を志す者たちがチンドン屋を修業の場として選ぶようになった。トランペットやサキソフォーンでビートルズの曲を演奏するなど、モダンなスタイルを取り入れているという。
【data】
・人数:全国に2500人(昭和30年代)
・日収:女性2円50銭、男性クラリネット吹き3円50銭、ビラ配り1~2円
【参考文献】『近代庶民生活誌 第7巻』南博編集代表 三一書房 昭和62年/〈月刊ペン〉昭和52年5月号掲載「ちんどんや その滅びの美学」藤井宗哲著/『下町の民俗学』加太こうじ著 PHP研究所 昭和55年/『昭和──二万日の全記録 第9巻 独立──冷戦の谷間で』講談社 平成元年/『昭和──二万日の全記録 第2巻 大陸にあがる戦火』講談社 平成元年