靴磨き
東京駅構内に靴磨きが誕生したのは、大正14年であった。大きな駅で靴磨きをする人たちは昭和の初めにも見られたが、とくに戦後になると、繁華街のビル街やガード下で、戦争孤児や貧しい人々が集まって靴を磨くようになった。日本人の習慣として、靴は自分で磨くものだったが、専門職として繁盛したのは進駐軍の米兵が多くいたからである。
靴磨きは警察署から道路使用の許可を貰って行う。場所は移動できず、日よけなどの設置も許されなかった。作業手順は、客のズボンの裾を折り返す。刷毛(はけ)で靴のホコリを取り払う。濡れたタオルで泥を拭うときもある。靴に詰まった泥もブラシで払う。靴の底、甲に靴墨を塗る。これを念入りに3、4回やってすりこむ。剥げていれば、さらに何度もすりこむ。さらにブラシで全体に広がるようにする。タオルでまたこする。最後に乾いたタオルでから拭きする。近年もJR大阪環状線野田(のだ)駅で靴磨きを行う西田典子(にしだのりこ)は、最後の仕上げに「パンスト」を使って靴を拭く。きめの細かいパンストを裏返して磨くと、靴がよく光る。
時代、季節、天気に影響された
戦後、この仕事は戦災孤児や家を失った少年たちの仕事であった。彼らは駅で足乗せ台を枕にして寝泊まりし、靴磨きを行った。親が健在の家庭でも、貧困から子供が家計を支えることもあった。
戦争で夫を亡くした女性の靴磨きも多く、死んだ子供の服を売って、靴墨など道具を買って始める人もいた。小さい子供がいれば、仕事場の傍で寝かせることもあった。仕事ぶりが丁寧であると、わざわざ遠回りをして、靴磨きを頼みにくる常連客も増えた。客の中には、集団就職などで上京した人たちもいた。年末になると一張羅の背広と革靴に身を包み、晴れ姿で帰郷する彼らは、靴磨きの前に列を作って並び、靴を磨いてもらった。
この仕事は天気にも左右される。急に雨が降ってくれば、客足は止まる。日曜、祝日も休まない。技術があれば、固定客も付くが、近年は大手チェーン店の進出が著しく、個人で行う靴磨きは減っている。
【data】
・料金:70円(昭和43年・東京)
・1日の客数:平均30人(昭和43年・東京)
【参考文献】〈週刊読売〉昭和43年3月22日号掲載「にっぽん体験 10 中村武志の銀座のクツみがき」