質屋
昭和に入って、質屋の数が一番多かったのは戦前と高度経済成長期であった。
質屋のシステムとしては、金に困った人が預けに来た金目のもの(質草(しちぐさ)と呼ぶ)を質屋が値踏みして、貸す金額を決める。ゆえに品物が本物か偽物かを見抜く鑑識眼が質屋には必要になった。着物、指輪、時計、楽器、カメラ、運動器具、書画骨董などが質草として重宝された。
質屋は単なる金貸しと違って、審美眼が大事なので、およそ10年の修業を必要とした。カメラなど特定の品物に特化するのではなく、他の分野にも精通し、化学繊維が流通すれば、純毛や混紡との違いを見分ける知識も身につける。公休日にはデパートに行って、品物を手に取り、目を肥やした。なかには盗品を売りに来る客や、安物を高級時計と偽る客もいる。このときは相手の目を見ると、本物かどうか長年の経験で分かった。質屋は品物だけでなく人の目利きでもあった。
客が返済期限(昭和20年代後半は90日)までに借りた金額と利子を払いにくれば、預けた品物は客に戻される。できなければ「質流れ」と言って、質屋の店頭で商品として販売される。質草の王道は着物で、一番受け取りやすく、流れた場合も、売りやすかった。貸付価格は新品であれば「新(あら)四分の一」が基準で、1万6000円の洋服であれば、4000円まで貸しても損はないという意味である。質流れは、5000円で売る。
質屋は客の世間体を考慮して大通りでなく人目につかない横道に店を構えるが、戦後すぐに没落した旧華族のようにプライドが高く質屋へ入れない人々は、「置屋」という代行業者を利用した。置屋は華族の女中が持ってきた品物を質屋に運び、置屋の名前で質に入れた。
経済動向を読むカギにも
昭和20年代後半、質屋に100円札が多く出回ると景気が悪くなる予兆とされ、インフレなどの経済動向が読めた。
質屋にも悪徳な者がおり、品物を預かったまま客に返さず、姿をくらます事件もあった。「親質」と呼ばれる元締めにさらに預けてしまうのである。
昭和50年代になると、サラ金などすぐに借りられる金融機関が増え、職人的な技量を要する質屋は減少した。
【data】 全国の質屋の軒数:4万1539軒(昭和33年)/8321軒(昭和59年)/6313軒(平成4年)
【参考文献】〈中央公論〉昭和28年8月号掲載「質屋三十年」小坂浅次郎著/〈地上〉昭和36年6月号掲載「質屋でございます、ハイ──泣き笑いの人生を窓からのぞいてみれば──」滝田アイ子著/〈文藝春秋・臨時増刊〉昭和30年5月5日号掲載「当世質屋物語」玉川一郎著/『近代日本職業事典』松田良一著 柏書房 平成5年