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《いま思い出す懐かしのレトロ》畳屋、駄菓子屋、豆腐屋…イラストで見る「昭和の消えた職業」10選

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タイピスト

 

 タイピストが注目を浴びたのは、大正時代になってモダンガールの進出とともに女性の社会進出が目覚ましくなった頃だった。タイピングの技術習得は、理解力、知力を必要とし、誰もができる仕事ではなく、一種のエリート職であった。当時は女性が希望する人気職種で、音楽家、保母に次いで3位にランクされた。

 大正9年には全国タイピスト協会が結成されており、職業婦人としての意識の高さも見られた。

 技術はタイピスト学校(またはタイプライター養成所)で学び、和文タイプだと4か月、英文タイプだと6か月の訓練を必要とした。目のよさも必要条件だった。その後、今日で言う商社などに就職して、洋風のオフィスで働いた。社員が手書きの書類をタイピストに渡し、それをタイピングした。

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3種類あった「タイピスト」

 タイピストには、和文、英文、カナの3種類があり、和文は官公庁に勤め、英文は商社、銀行、保険会社、カナは証券、保険会社、銀行などに勤めた。和文タイプは大正4年に開発されたが、1分間に80文字を打てれば一流で、タイピストとしてだけではなく、事務も兼ねて勤務した。

 とくに英文タイプができる女性は希少価値でかなりのインテリジェンスであった。彼女たちは外資系で月収100円以上で働いた。イタリアのオリベッティのタイプライターを指先の感覚で叩くタッチタイピングで素早く打っていくさまは、神業(かみわざ)のようでもあった。ただし、手書きの和文を訳すわけではなく、英文をそのままタイプに打ちこむので、英語ができなくてもよかった。和文タイプの場合は、キーボードがなく、文字の配列盤から字を探して打った。

 なお、タイピストは各会社の需要も多く、昭和に入ると日本の領地下にあった上海、南京など中国の商社へ派遣されることもあった。職業婦人の代表とも言える彼女たちは、戦前から仕事として海を渡った女性たちの先駆者でもあった。

 タイピストも能力差があったため、同じタイピストでも収入に大きな開きがあった。

【data】月収:平均35円、最高で450円、最低で20円の人もいた(昭和10年)

【参考文献】『軍装のタイピスト──あの時代を駈けぬけた17歳の記録』澤田愛子著 鶴書院 平成5年/『近代日本職業事典』松田良一著 柏書房 平成5年/〈相談〉昭和9年2月号掲載「オール職業婦人 世相座談会」/『大東京物語──経済生活篇』倉繁義信著 昭和5年/『近代庶民生活誌 第7巻』南博編者代表 三一書房 昭和62年