なぜなら……もうすぐ『名人』が解説者として登場することになっているから……。
こんな局面を……バグの出現によって無惨に歪んでしまった将棋を、大勢の視聴者の見る中で名人に解説させるなどということが許されるのだろうか?
弁護士として、杉村はいかなる事件にも冷静に対処してきた。
だが、この『事件』に関しては、冷静でいられない理由があった。
「……開発者権限で投了するのは、葛藤がありました。その理由は――」
杉村がこのとき直面した葛藤を理解するためには、この長時間マッチを彼がなぜ開催したのかについて語らねばならない。
電竜戦の成り立ちと、将棋ソフト開発者たちが置かれた状況について語らねばならない。
時計の針を戻そう。
全ての始まりは、2020年5月に行われた、世界コンピュータ将棋オンライン大会でのことだった――
『水匠』VS『dlshogi』長時間マッチ前夜
『電竜戦』――それは、将棋ソフト開発者たちが独自に立ち上げた、最強のソフトを決めるための大会である。
特徴としては、オンラインで行われること。
そして『TSEC』……指定局面戦と呼ばれる、普通の将棋の開始局面とは違う局面から対局をスタートさせる大会も存在することだ。TSECについては後述する。
もともとは『カツ丼将棋』の開発者である松本浩志が、CSA(コンピュータ将棋協会)の主催する世界コンピュータ将棋選手権を見ていて「これなら自分1人でもやれる」と思い立ったことから、電竜戦はスタートした。
「私は将棋ソフトを作るよりも、システム周りを開発するほうが得意だったんです。最初に作った将棋ソフトもExcelで作ったくらいで。電竜戦のシステムも対局を管理する部分はExcelで作ってます。サーバ周りのシステムのExcelでない部分もほぼ私が作りました」
「去年はコロナもあって選手権がオンラインになったんですが、けっこう手軽にできたんです。これはいいと思って。『これなら俺1人でも管理できる』と」