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連載サウナ人生、波乱万蒸。

2021/11/13

在日コリアンとして生まれ

「父が韓国で行っていた家業が倒産して、両親の知り合いを頼って日本に働き口を探しに来たのが始まりです。父は最初に日本に来た時、全財産1万円。でも免税店でタバコ買うんですよ(笑)。買うんかい!って感じなんですけど(笑)。当時1カートン2000円くらいで、残り8000円。嫁と子供もいるし、これからどうしようかな…って喫茶店で煙草を吸っていたら、状況がネガティブすぎて、逆に気持ちがポジティブになり『これ以上悪くなることはないから、なるようになるでしょ』って、とにかくなんでもやってやる!という感じになったそうです。すごい狭い場所に家族3人で暮らしていましたが、まだ幼かったので貧乏だと理解できていなかったのは幸いでしたね。その後は両親ともに知り合いのツテでとりあえず仕事は見つかって」

 スタートから映画の様な波乱の船出。

 幼かった文は日本語がしゃべれず、子供ながらに苦労したという。

「最初は日本語が全く喋れなかったんですよ。いきなり小学校に入ったので、大変でした。昔って転校生は全校集会で挨拶してたんですね。当時『おはようございます』だけは言えたんで、先生からそれだけ言いなさいって言われて。全校生徒の前でマイクを向けられて『おはようございます』って言ったら、校長先生が質問したんです。『どこから来たんでしたっけ』とかそんな感じの質問だったと思うんですけど。僕は何言っているかわからないし『おはようございます』しか言えないので、もう一回『おはようございます』って言ったら、この子言葉わかんないんだってなって。それでいじめられました。

 西麻布という土地柄、大使館関係の外国人のお子さんや韓国人もいっぱいいたので『韓国人だ』といじめられたわけではないのですが、言葉がわからない子が入ってくると、からかいの対象にはなりますよね。当時、両親とは韓国語で喋っていたのですが、親としては早く日本語を覚えてほしいという思いがあって、できるだけ家でも日本語を使うように促されました。必死だったので、半年ぐらいで不自由ないぐらいにしゃべれるようになりました。子供って凄いですよね。

 その後はもう言葉の苦労は全くなくなりましたが、逆に韓国語のスキルがみるみる落ちてしまいました。家ではいまだに母親は僕に韓国語で話しかけ、僕は日本語で返しています」

 韓国から裸一貫来日し、家族で苦労しながらも懸命に暮らしていた文一家。両親に共通していたのは“サウナが大好き”ということ。それは、東京でも有数のサウナ施設創業の火種になるには十分だった。

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