昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

連載昭和事件史

2021/11/07

 ラストボロフはスパイだった。駐日元ソ連代表部二等書記官というのは真っ赤なウソで、実はれっきとした陸軍中佐で、しかもその手先に日本人が躍ったことが発表された。つい最近には、西ドイツの憲法擁護局長だったヨーン博士が東ドイツに寝返って西ドイツの秘密?をバラして世界の視聴を集めた。いまや世界は華々しいスパイ合戦である。特にアメリカとソ連の谷間にある日本はスパイのひのき舞台ともいえるが、一体ラストボロフの手先になった日本人は誰か―。

 警視庁公安三課の調べによると、「私がラストボロフと連絡していました」と自首した男は元関東軍第三十五軍航空参謀、志位正二・元少佐(35)である。志位は陸士(陸軍士官学校)52期生で成績優秀だったが、終戦でソ連に抑留され、カラガンダ収容所におり、昭和24(1949)年6月、舞鶴に上陸、復員した。志位元少佐は舞鶴米軍特務機関でソ連スパイ(いわゆる幻兵団)摘発係として「渡辺」という偽名で二世大尉の助手となった。その後、カラガンダ地区引き揚げ者の情報により、志位は(1)政治委員と特に親しい(2)民主主義者(共産分子)である(3)陸士時代からロシア語がうまい(4)参謀として初の引き揚げなのはおかしい―という4点から、ソ連スパイとなる誓約をした“幻兵団”の疑いがあるといって志位の勤務に反対が出たがそのままになった。

 取材を積み重ねたことが読み取れる記事はさらに続く。

 志位は26(1951)年3月まで、舞鶴の米軍特務機関内でアメリカ側の情報を自由に入手し得る立場に置かれていた。26年4月から東京郵船ビル内の事務所に勤務していたが、この時期にラストボロフとの連絡がつき、彼の指令によって動いていた。ところがかねて志位を怪しいとにらんでいたCICは彼を逮捕。ウソ発見器など各種の機械によって、(彼は)22(1947)年にカラガンダでソ連スパイの誓約書に署名、さらに24年の帰国直前、ナホトカでそのスパイ使命を再確認する誓約書に再び署名したことを自供した。

 CICとは、日本占領に当たっていた連合国軍総司令部(GHQ)の「G―2」(参謀第2部)に所属する諜報機関「対敵諜報部隊」。責任問題になることを恐れた米当局は彼を解雇しただけで済ませた。

志位元少佐について伝えた読売

ラストボロフから情報を取ろうと志位元少佐を二重スパイにしたが…

 その後、志位元少佐は新聞社の嘱託を経て外務省アジア二課嘱託に。その間、彼を尾行し、ラストボロフとの連絡をつかんだCICは、志位を通じてラストボロフから情報を取ろうと志位を二重スパイとした。ところが、ラストボロフが亡命するに及んで、日本独立後にできた刑事特別法に触れるのを恐れて警視庁に自首したというのが記事の概要だった。
 当時は報道されなかったが、「警視庁史 昭和中編 上」には匿名で次のような記述がある。「このようなさなかの同(1954)年2月5日、外務省アジア局第二課勤務S(34)が『自分はラストボロフに情報を提供していた』と警視庁に自首してきたので取り調べた結果、次の事実が明らかになった」。