内務人民委員部の極秘文書で明らかになったとしたが、三宅正樹「スターリンの対日情報工作」は、その「エコノミスト」は高毛礼だった可能性が極めて強いとしている。当時、石油会社社員だった高毛礼は、商工大臣と同社幹部の夕食会に同席。海軍出身の商工大臣が対ソ融和の方針を述べた発言から、対米戦に傾く日本政府の動向を通報したという。
繰り返されたラストボロフの証言を総合すると、彼が亡命の意思を打ち明けたのは、当時ラストボロフに英語を教えていたブラウニング夫人というアメリカ人女性だった。そして、亡命を仲介した彼女は実はアメリカ軍諜報機関の少佐だったとされる。
アメリカに渡ったラストボロフの「その後」
最近の研究によると、アメリカ国立公文書館にはCICの「ラストボロフファイル」が保存されており、それには、その女性を通じて、アメリカ諜報機関がラストボロフを「潜在的な亡命者」として監視・指導していたことが分かるという。
「文藝春秋」2004年11月号に掲載されたロシア科学アカデミー東洋学研究所専任研究員アレクセイ・A・キリチェンコ「KGBファイル『ラストボロフ秘史』」によれば、ラストボロフはアメリカで彼の護衛と見張り役に付いた女性と結婚。2女をもうけたが、やがて離婚。ワシントン郊外に一人暮らししながら、エレクトロニクスとレストランのビジネスを手がけた。
生活には余裕があったが、晩年は介護施設に入所。2004年1月にアメリカ人マーチン・F・サイモンズとして82歳の生涯を閉じたという。結婚した女性は離婚後、CIA要員と再婚しており、結婚生活さえも監視・指導の枠内だったとも思える。
どこまでが真実で、どこからが謀略なのか
ラストボロフ事件が起きた直後の1954年3月、日本はアメリカと相互防衛援助協定など4つから成る「MSA協定」を締結。アメリカは日本に防衛力の強化を求めており、国内では協定に伴う機密保護法制定の是非が論議されていた。「戦後政治裁判史録2」はラストボロフ事件に関して「亡命に端を発したこの国際スパイ事件を契機として、国家機密を守るための機密保護法を制定する動きも出た」と書く。
それから31年後の1985年、自民党議員が「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」(スパイ防止法案)を国会に提出したが、野党などの反対で廃案に。しかし、さらに28年後の2013年12月、第二次安倍政権は強行採決で特定秘密保護法を成立させた。
推進派はスパイの暗躍を理由に機密保持を強調するが、その実態はどうなのかは全く見えない。ラストボロフ事件を振り返っても、どこまでが真実で、どこからが諜報や謀略なのかが判然としない。そこに問題の難しさがありそうだ。
【参考文献】
▽「警視庁史 昭和中編 上」 警視庁史編さん委員会 1978年
▽松本清張「ラストヴォロフ事件」=「日本の黒い霧 上」(文春文庫、1974年)所収=
▽田中二郎・佐藤功・野村二郎編「戦後政治裁判史録2」 第一法規出版 1980年
▽三田和夫「東京秘密情報シリーズ第1集 迎えにきたジープ」 20世紀社 1955年
▽三宅正樹「スターリンの対日情報工作」 平凡社新書 2010年
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生々しいほどの強烈な事件、それを競い合って報道する新聞・雑誌、狂乱していく社会……。大正から昭和に入るころ、犯罪は現代と比べてひとつひとつが強烈な存在感を放っていました。
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