9月24日付朝日夕刊には「ラストボロフ事件 これ以上発展せず」という記事が。ラストボロフの面接調査に渡米していた長谷検事らが現地で記者会見。「新たに外務省員の検挙が行われるなど、事件がこれ以上の規模に発展することないだろうと思うと語って注目された」。実際にも、スパイとされて逮捕された者はそれ以上出なかった。
日本で事件捜査が進んでいた間にも、ラストボロフはアメリカ議会などでのスパイ工作暴露を続けていた。
最も詳しいと思われるのは1956年5月29日、アメリカ上院司法小委員会での陳述だろう。そこでラストボロフは1948年にソ連ハバロフスクでシベリア抑留者をスパイに徴用する工作を語っている。「世界週報」1956年11月号に掲載された陳述内容によると――。
ソ連諜報機関では日本人捕虜を次の順序で徴用するよう指令された。(1)皇室関係(2)有力な元政治家(3)元実業家(4)新聞記者(5)科学者(6)技術専門家(7)医師――。将来日本で責任ある地位につく人々だ。
日本人捕虜が協力を惜しまなかったのは、ソ連から生きて帰るためには誰とでも、必要ならば悪魔とでさえ取り決めを結ぶ心構えができていたためだ。捕虜の死亡率は非常に、また不必要に高かった。衛生状態は不十分で、特にシベリアの厳寒の冬期に質の悪い黒パン、腐った馬鈴薯や塩キャベツなどの食糧で捕虜たちは飢え、流行病が蔓延した。ソ連の諜報将校の1人は「日本人はハエのように死んでいく」と言った。
ソ連政府の考えの底流には、日本人スパイを長期にわたって利用することがあり、5年から20年にわたって使うということだった。
手先となった日本人は帰国後(1)(ソ連に対して)「不忠」な行動に参加しない(2)良い評判を作り上げる(3)日本当局者の前では、ソ連に対して敵意を抱いているように見せかける(4)共産主義思想に対して憎しみを表現する――ことを指令されていた。
1950年までにソ連の諜報活動の手先となった日本人は約500人に達した。ソ連諜報部はほかに「密告者」を「潜在的諜報者」と捉えており、その数は8000名以上という驚くべき数に達した。
女性を使った「ハニートラップ」も
工作にはさまざまな形の脅迫や女性を使った「ハニートラップ」などもあった。高毛礼元事務官についてもロシア人女性との恋愛が利用されたとされる。
被告2人に対する公判は分離されて進められたが、いずれも起訴事実を否認。高毛礼元事務官は最終的に懲役8月、罰金100万円の刑が確定した。庄司元事務官は、警視庁公安三課長がアメリカで聴取したラストボロフの調書の証拠能力が問題となったが、一審判決は証拠能力は認めたものの、証明力に疑問があるなどとして無罪。控訴も棄却されて無罪が確定した。
亡命を仲介した女性も諜報機関員?
高毛礼については後日談がある。2005年8月13日発の共同通信モスクワ電は、太平洋戦争が始まった1941年、日本政府の内部に「エコノミスト」という暗号名のソ連の日本人スパイがおり、日本の対米開戦方針に関わる重大情報をスターリンに報告していたと報じた。