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連載日の丸女子バレー 東洋の魔女から眞鍋ジャパンまで

「指が折れていようと、私はコートに立ちますから」〈28年ぶりのメダル〉を日本女子バレーにもたらした竹下佳江の覚悟

日の丸女子バレー #1

2021/12/11
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木村沙織の9年間

 ブラジル国旗を真ん中に、左にアメリカ、そして右に日の丸が掲げられた。リズム感に富んだ軽快なブラジル国歌を聞きながら、日本のエース木村沙織は、不思議な感覚に陥った。

「アテネ五輪、北京五輪は観客席から表彰式を眺めていました。2大会とも決勝戦を見た後での表彰式だったから、ブラジル凄い、アメリカ上手い、中国強いと、試合に興奮して表彰台の選手らを讃えていた。選手というよりは観客的な目線だったし、表彰台に立ったら会場はどんな景色に見えるのかなんて考えもしませんでした。それが今、私たちが表彰台から観客席を見ている。ここでやっと、いつも見ていた側ではなく見られる側に立っているんだと気づき、嬉しさが心の底から突き上げてきたんです」

 日の丸が、ブラジル国旗、アメリカ国旗と同時に揚がる光景に感動しながら、全日本に選抜されてからの9年間の試合が、木村の心中に次々とよみがえってきた。

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「ずっと遠い存在だと考えていたブラジル、アメリカの隣に日本がいる。やっと、やっとここまでたどり着いた」

 12人の目は日の丸に注がれる。

 国旗が掲揚され始めた当初、感激の面持ちで目に潤いを含ませていた選手たちの表情は、優勝したブラジルの国歌演奏が終わりに近づく頃、瞳に鋭い光を宿したものへと変わっていた。

「やっぱり真ん中がいい!」

木村沙織選手と荒木絵里香選手 ©文藝春秋

ターニングポイントは対中国準々決勝だった

 かつて、女子バレーは日本のお家芸と呼ばれていた。1964年の東京5輪の金メダルにはじまり、68年のメキシコ五輪、72年のミュンヘン五輪で連続銀メダル、76年のモントリオール五輪では再び金、80年のモスクワ五輪は出場を見合わせたものの、84年のロサンゼルス五輪では銅と、メダル獲得は当然に思われていた。

 だが、88年のソウル五輪で4位とメダルを初めて逃すと、徐々に下降線をたどり、2000年のシドニー五輪は出場さえ出来ず、02年の世界選手権では史上最悪の13位にまで沈んだ。

 世界が高さ、パワー、スピードを誇り、しかも高度な戦術を身につけていく中で、身体に恵まれない日本女子バレーは、高身長が絶対的に有利とされるバスケットと同じように、世界と伍して闘うのは物理的に無理という諦めが、どこか日本人の中にも生まれつつあった。

 実際、複数の2メートル台の高身長選手を擁するロシアやオランダ、身長はさほど大きくないものの、強靭な身体のバネを誇るキューバやペルーなどの中南米、さらに高身長に加えパワーとスピードを誇る米国やブラジル、イタリアなど、身体能力を武器にする国が90年代以降の女子バレー界を席巻してきたのである。

 対して日本は拾ってつなぐバレー。どんなに負けじ魂を鍛えようと、根性バレーで身体能力に上回る強豪国を打ち負かすことは出来なかった。かつての栄光はあるものの、そもそもバレーという競技は小柄な日本人には向かないのかも知れない。そんな諦観を一掃したのが、ロンドン五輪で見せた眞鍋ジャパンの活躍だった。

 ロンドン五輪は金7、銀14、銅17の計38個と、日本オリンピック史上最多のメダルを獲得した。日替わりでヒーロー、ヒロインが誕生する中で、大会期間中、5分あたりの国内総ツイート数最多を記録したのは、女子バレー準々決勝の中国戦に勝利した瞬間である。

 私たちは、コートで懸命に闘う彼女たちの姿に勇気と希望を見出し、「資質に恵まれない日本人でも、戦術次第で勝てる」と心躍らされた。それがツイートの数にも表れたのだ。