三段リーグに入って「やっと半分と思いなさい」
飛行機で大阪に通い、対局の翌朝の始発便で宮崎に帰り学校に通う。帰宅後、指した将棋を思い出して棋譜を書き留める。100手を超える将棋を最初からすべて覚えているというのは、一般の人には驚きかもしれない。
書き記された文字や、師に宛てた自分の将棋への感想文から、緊張した心持ちが伝わってくる。それゆえ、子どもだった都成にはこの作業はまだ負担が大きかったのだろう。テーブルに向かいながら、いつしか眠ってしまう息子の姿を、母・峰子はそっと見守っていた。
都成は17歳で奨励会最後の関門“三段リーグ”に入った。約30名で一期半年のリーグ戦を行い、上位2名がプロデビューできる。しかし谷川は都成に言う。「やっと半分と思いなさい」。奨励会の真の厳しさが始まるのはこれからだった。
「何度か記録を録っていると、最初の悔しさが薄れてくる」
都成が三段リーグに入った当時、関西には有望な若手が多かった。後輩には、菅井竜也(3歳下)、澤田慎吾(2歳下)、斎藤慎太郎(4歳下)らがいた。
「悔しかったのは菅井君に抜かれたときです」
都成の言葉が詰まった。菅井竜也は現在若手を代表するトップ棋士の一人である。
「最初にあったときは年下の可愛い中学生で、僕も少し先輩風を吹かせていました」
顔を合わせれば「将棋を指しましょう」と言ってきた後輩。やがて、何十時間も将棋にのめり込むその姿に脅威を感じるようになる。菅井は17歳で四段に昇段した。
「初めて菅井君の記録を取ったときは、悔しさとか、情けなさとか、いろんなものがこみ上げてきました。でも何度か記録を録っていると、最初の悔しさが薄れてくるんです。彼にふつうにお茶を出している自分に気づくと、俺は何をやっているんだろう、あんなに悔しかったじゃないか、こんな自分じゃダメだって思えてきて……」
澤田、斎藤らも四段に上がり、三段リーグには、また新しい後輩たちが入ってきた。自分が若いと思っていた時期は一瞬で過ぎ去り、気づけば先に行った者たちの背中を見ている。奨励会とはそんな場所だった。
「誰かがプロになると、祝勝会が開かれるんです。20歳を過ぎた頃から、足を運ぶ気になれなくなりました。純粋な気持ちで祝えない。自分の席がなくなっていくことを思うと」
負け越せば退会、勝ち越せば1期延長
同世代の者たちは、大学を卒業し、社会人になっていた。都成は高校を中退して、棋士になれなければ後がない状態だった。
同じ奨励会の竹内貴浩とは、ともに悩みを語り合った。言葉にせずとも、それぞれの葛藤を分かり合えていた。
竹内は2歳上で、都成よりも早く、年齢制限のときがやっていきた。彼がいよいよ最後の期になったとき、リーグ表を見ると、最後から3番目に都成との対局が組まれていた。