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誰に何を言われようと男の頭には“世界一”しかなかった

「今考えれば、山田さんの得意のマスコミ操作だったんだと思います。新聞に出た以上、仕方がないから山田さんに会いました。その時に、メキシコ五輪の屈辱をひたすら語っていた。もし、君の力で僕を男にしてくれというような言い方だったら『まず私を女にするのが先でしょ』と拒否したんですけど、話は選手に辛い思いをさせてしまったことの苦渋に終始していた。私もミュンヘンで悔しい思いをしていたし、山田さんと組んで金メダルを目指すのもいいかなと考え、日立に移籍を決めたんです」

 この強引な移籍にバレー界は騒然となったものの、山田はソ連に勝つためには、まずは日立の強化が必要と意にも介さなかった。世界一になることだけに心を奪われていた山田に、他人の厳しい視線は入る余地もなかった。

当時、山田率いる日立へ“電撃移籍”した白井貴子選手 ©文藝春秋

 もちろん、山田が着手したのは選手獲得だけではない。大松以降、日本女子バレーは忍耐と根性が技術上達の絶対的手段ととらえられていたが、山田はまずは海外選手並みの身体の強靭さが必要と考えた。ボール練習を減らし運動科学に基づいたウエイトトレーニングを取り入れたのだ。

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 そこでトレーナーとして招聘されたのが、現東海大学名誉教授の田中誠一である。運動生理学の草分けでもある田中は当時、長嶋茂雄などの個人コーチをしていた。田中が言う。

「その頃はまだ、科学的なトレーニングの必要性を理解している人はほとんどいなかった。でも、山田さんはいち早く僕に目をつけた。そこに彼の先見性がありました。しかもボール練習より選手の身体を鍛えるのが先だとお願いされた。こういう指導者がいるチームは必ず強くなると思いましたね」

 選手の身体が鋼(はがね)のようになるにつれ、山田は次々にパワーを生かした戦術を編み出した。

 その最高傑作がエース白井とセッター松田紀子の速攻「ひかり攻撃」である。金メダルを獲得したミュンヘン五輪日本男子のAクイックにヒントを得て考案したもので、女子の身体では不可能とされていた技だった。

 通常のオープン攻撃は、セッターが天井に向けて山なりのトスを上げ、アタッカーが落下するボールに向かってジャンプし、スパイクを打つ。ひかり攻撃は、先に白井がジャンプし、その最高到達点に目がけて松田が平行のジャンプトスを繰り出す。白井と松田に0.01秒でもズレが生じればスパイクは不発になってしまう電光石火のプレイである。

 この攻撃は2人にしか出来なかったものの、チームに思わぬ副産物をもたらした。身体が鍛えられたせいもあり、コンビ攻撃がスピードを増すことになったのである。前田悦智子の“稲妻落とし”もその一つだった。