子どもを守るための園長の決断
この情報は、日曜日で家にいた園長の菱川由美のもとにも届けられた。菱川の頭に浮かんだのは、最悪の事態だった。もし吉村が陽性だとしたら、すでに他の職員や園児にも感染しているかもしれない。全国の福祉施設などで起きているクラスターの状況を踏まえれば、保育園を休みにして感染拡大を防止する措置を取る必要があるだろう。だが、休園や検査には自治体の協力が不可欠だ。
菱川はまず横浜市神奈川区に連絡を入れ、今起きている事態をつたえた。当然、区からはすぐに休園にして、検査体制を整えるという回答が来るものと思っていた。ところが、区の担当者の答えは意外なものだった。
「その職員が自分でコロナの疑いがあると言っているだけで、検査で陽性であると明らかになったわけではないんですよね。それなら、現段階では、何も確実なことは言えませんので、公表するべきではありません」
区の職員は、保育園が不確かな情報を保護者に伝達して混乱が起こることを懸念したのだろう。
菱川は納得がいかなかった。情報が不確かなのは検査を受けられないからであって、吉村の体には明らかに新型コロナと思われる症状が出ている。それを保護者に報告せずに開園し、後で何かあったらどうするつもりなのか。
「じゃあ、保護者には体調を崩した職員がいることを内緒にした上で、明日も通常通り園を開くべきだということですか」
「はい、そうです。明日は開園してください。その職員が検査を受けて陽性だとわかったら、どうするかを決めるべきです」
「でも、検査を受けたくても受けられないんですよ。それなら最悪の事態を考えて動くべきじゃないですか」
「とにかく、今申し上げたようにしてください」
菱川にとって、区の職員の提案は受け入れがたいことだった。万が一、子供や職員が命を落とす事態になったら、誰がどうやって責任を取るというのか。だが、区の許可なくして閉園することはできない。
菱川は強い口調で言った。
「うちとしては保護者につたえずに、保育をつづけることはできません。もし明日以降も開園しなければならないのなら、今起きていることを保護者に説明した上で、子供たちを来させるかどうか決めてもらうべきです」
「どうやって保護者に説明するんですか」
「私の方から一斉メールを保護者に送信します」
区の職員は反論したが、菱川は耳を貸さずに電話を切った。そしてすぐにパソコンに向かって、保護者宛のメールを書き、その日の晩のうちに一斉送信に踏み切った。
メールの内容が次だ。
本日現在、発熱ののち味覚障害等の症状により職員が自宅待機の状態となりました。
保健所より、残念ながら現在は重篤な症状を優先しており検査自体ができないとの回答が出ており、自宅待機をするよう指示が出ております。したがって、今しばらくは検査もできない状況は続くと思われます。
神奈川区は、検査結果が出ていない以上明日以降も開園する事と、「公共の利益」の観点から保護者への状況説明の必要はないとの見解です。
しかしながら法人としては、昨今の状況の中感染拡大予防の観点から情報開示を行い、登園に関して保護者様が常に選択できる環境を提供する事は今後も重要な事であると捉えております。
本日取り急ぎ、状況をお知らせした上で明日からの登園に関して保護者様のご判断をよろしくお願い致します。
保育園を開けなければならないのならば、せめて園内で起きていることを説明した上で保護者に判断を委ねようとしたのだ。