週が明けた6日、菱川は区からの指示に従って時間通りに開園した。保護者の半数は、前夜に送られてきたメールを見て子供の登園を自粛した。メールが届いてから朝まで時間がなかったため、会社をすぐに休めない人も多かったのだろう。翌7日には、さらに半数の親が会社を休むなどして子供を休ませた。
この間、感染の疑いのある吉村は勤務を休み、医療機関に手あたり次第に連絡をして、PCR検査を受けさせてほしいと頼んだ。その甲斐あって、7日の火曜日に、以前住んでいた川崎区のクリニックが検査をしてくれることになった。1度は断られたものの、事情を話して了解してもらったのだ。
午後2時、彼女はクリニックを訪れ、防菌対策をした個室でPCR検査を受けた。結果が出たのは翌8日の昼のことだった。保健所の職員から彼女のもとに直接連絡があり、こう言われた。
「検査の結果、陽性反応が出ました。新型コロナウイルスに感染しています」
やはり感染していたのだ。ただ、この時点では味覚と嗅覚の症状くらいしかなかったため、入院ではなく、自宅療養するように指示された。
吉村は保健所からの電話を切ると、即座に園に状況をつたえた。外出のできない彼女には、園の子供たちの無事を祈ることしかできなかった。
公表をめぐる市とのやりとり
この日の午後7時過ぎ、園長の菱川は仕事を終えて家に帰宅していた。そこで電話が鳴り、吉村が陽性だったことを教えられた。懸念が現実のものとなったのだ。
午後7時半、菱川は区の担当職員に電話を入れ、事態を報告した。予想通り検査結果が陽性だったので、一刻も早く閉園を認めてほしいとつたえた。だが、担当職員はそれを聞いてもその場では言葉を濁し、市に報告して判断を仰ぐと言って電話を切った。
しばらくして菱川のもとに区の職員から電話がかかってきた。職員は次のように話した。
「市と協議しましたが、明日、保健所の職員が園へ行って調査をします。休園にするかどうかは、その意見を踏まえて判断したいと思います」
「え? 保健所の職員が来ないかぎり閉園できないということですか。それなら、せめて陽性者が出たことだけでも保護者につたえてもいいですよね」
「それも待ってください。今の段階では公表する必要はありません」
菱川は耳を疑った。なぜ陽性だとわかったのに、それをつたえてはならないのか。
「もう公表する段階であるのは明らかですよね。これ以上隠してどうするつもりなんですか」
「それも含めて保健所が判断します」
「保健所の方は明日の何時頃にいらっしゃるつもりなんですか。開園前の早朝までに来ていただかなければ、子供たちが来てしまいます」
「今から手配するので、朝までに行くのは難しいと思います。明日は通常通り保育をして、保健所の職員が来たら調査に協力していただくということでお願いします」
「コロナの陽性者が出たとわかっているのに、子供を受け入れろってことですか」
「はい、そうなります。閉園するかどうかは、あくまで保健所の判断になりますので、調査が終わるまで待ってください」
菱川は、区の職員の話の意味がまったく理解できなかった。役所が決めたルールを棒読みしているだけで、まったく現場で起きていることを考えているとは思えない。
だが、菱川がそれをいくら言っても、区の職員は、「通常通り開園してください」「まだ保護者につたえないでください」と同じ主張をするばかりだった。