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 菱川は電話を切り、保護者たちに事態を知らせる準備をはじめた。

 市の職員はなんとか思いとどまらせようと、午後11時半に1度、0時半に1度、さらには午前1時にその上司からも電話をかけてきた。彼らは菱川ががんとして譲らないことから、ついには理事長に話をさせてくれと迫った。

 菱川は語る。

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「市の担当者が理事長を説得して、私の決断を変えさせようとしました。でも、私としてはどうしても子供たちを危険にさらすわけにはいきませんでした。それで市や区が何と言おうとも、園の判断で情報開示するとしたのです。最終的には、理事長もそのことについては賛成してくれました」

 夜が明けた午前6時、菱川は保護者に対して次のようなメールを送った。

 一昨日、当該保育士が自ら探し出した医療機関にて検査を受ける事ができ、昨日夜に結果は陽性との知らせを受けました。

 横浜市は本日も通常の開園を指示しており、「無用の混乱を避けるため、保健所が調査し横浜市が今後の決定を下すまで保護者に通知はしないよう」との事でした。

 知らずに登園するご家庭がある事の危険性を伝えましたが、「休園や一部休園の可能性や決定は横浜市が状況を調査し判断するまで、情報開示はせずに開園すること」との見解です。

 法人としては横浜市の指示に準ずる所存でおります。

 しかし本日以降の登園に関しては保護者の皆様に選択権があり、皆様の判断に全て委ねるかたちで横浜市の指示を待つことが、今保育園ができる最大限の感染拡大防止策であると考えます。

 開園指示のある間は開園しており、やむを得ず保育が必要なご家庭もある事を認識し、万全な体制ではない事をお知らせした上で各ご家庭のご判断を宜しくお願い致します。

 この日の朝、4人の保護者が子供を連れて登園してきた。1人はメールを確認しておらず、3人はメールを見たものの保育園を利用したいと考えてやってきたのだ。ただ、保育園側が再度4人の保護者に説明をしたところ、いずれも理解を示し、帰宅した。これによって、在籍していたすべての子供が自宅待機をすることになったのである。

ようやく休園が決まる

 菱川はほっと息をついて、午前9時過ぎに昨晩話をした市の職員に連絡を入れた。そこで保護者に対して事実を公表したと打ち明けたのだ。市の職員は感情的な声になって言った。

「公表しないようにという話だったじゃないですか! なんでつたえたんですか!」

 菱川は、自分の判断だと答えた。市の職員は納得できない様子で、今後は区の指示に従うようにと言って電話を切った。

 その後、菱川は園に残り、保護者や職員への対応をする傍ら、保健所の調査が入るのを今か今かと待っていた。朝1番に来るものと思っていたが、昼を過ぎても連絡すらなく、ようやく姿を現したのは夕方になってからだった。

 調査に来たのは全員で4人だった。医師が1人、看護師が1人、それ以外に区の職員が2人。誰1人として防護服を着ておらず、スーツにマスクという姿だった。彼らは園に入ると、軽く内部を見て回っただけで、次のように述べた。

「消毒のマニュアルをお渡ししますので、園の方でそれに沿って消毒を行ってください」

©iStock.com

 渡されたマニュアルには、園がすでに行ったことしか記されていなかった。拍子抜けするような気持ちだった。

 菱川は言った。

「それで明日から正式に休園ということでいいんでしょうか」

「保健所が休園にするかどうかを決めるわけではありません。ヒアリングの内容を市につたえますので、それをもって判断することになります」

 菱川は耳を疑った。保健所に話した内容は、昨晩の電話で市の職員に話したのと同じだ。それなら、保健所の調査を待たず、昨日のうちに市の方で休園にするかどうかの判断ができたはずではないか。これまでのやりとりが何もかも無駄だったような気がして虚しくなった。

 午後8時頃、菱川のもとに区の職員から電話がかかってきた。市の決定が出たという。区の職員は言った。

「休園に決定しました。明日から正式に閉めてください」

 ようやくか、という思いだった。

「保護者へ改めて説明したいと思います。うちの方でやっていいんですよね」と菱川は言った。

「それについては、我々の方から保護者に対する文案を出します。園は、それをそのままメールで送ってください」

 区としては、園の主導ではなく、自分たちが納得できる形で文案を決めてつたえたかったのだろう。