さらに6月9日付朝刊では、「博士大野が若(も)し 無罪となつたら」と、判決が無罪の場合、神奈川県警察部衛生課が医業停止処分を上申する方針だと報じた。無罪説が一部にあったのは事実のようだが、この事件を最も熱心に報道した読売は、一方で無罪論をリードしていたようにも感じられる。
しかし、そもそも六女の妊娠は大野博士の暴行によるもので、現に訴追されているのだから、博士による中絶未遂と実際の中絶手術を同列に論じることはできないだろう。どうも、このあたりの論議はおかしい。
6月15日の公判では、六女の中絶手術をした産婦人科医の証人尋問があり、検察側は懲役8年を求刑。それに対し弁護側は、性的暴行は刑法上、中絶未遂は法医上、犯罪不成立と主張。花井弁護人は「大野博士は道徳的に憎むべきだが、法理上、犯罪を構成しない」と弁論した。ここに至って読売も6月16日付朝刊記事で「結局、体刑(実刑)は免れぬ模様である」と認めた。
判決を前にした6月18日付読売朝刊は「金に窮した 大野博士」の見出しで、事件発覚以来仕事もなく、弁護費用の支払いに窮し、横浜の自宅を4500余円(現在の約730万円)で売却。イギリス、フランス、ドイツの原書の翻訳に没頭していると報じた。
判決に「顔色土のごとく変わり」
大野博士を― 懲役六年に 昨日判決言渡さる
【横浜電話】群馬水力電気会社の社長・小倉鎮之助氏の六女で横浜市平沼町、県立女学校4年生(19)を凌辱、妊娠させて犯行を隠蔽せんと企てた医学博士・大野禧一に係る事件は昨23日午前11時、判決言い渡しがあった。この日初めて傍聴が許されたので、傍聴人は潮のごとく詰めかけてたちまち満員となった。被告大野博士は竪絽(たてろ)の紋付に仙台平のはかまを着け、やや興奮せる感情を無理に緊張させ、青白い顔色に両眼を赤く染めて被告席に着き、両手を重ね、頭を垂れて判決を待った。かくて午前10時半、新保裁判長、陪席判事並びに瀬戸検事立ち合いの下に、裁判長は被告の名を読み上げ、「強姦罪として懲役6年に処す」と言い渡すや、被告は一時自失したように瞑目し、時折、けいれんのように全身を震わせながら、判決の理由を読み聞かせられた。退廷した時には、さすがの業腹な博士も顔色土のごとく変わり、取り囲んだ記者連に「誠に申し訳ありませぬ」と繰り返しつつ、「私は控訴する考えですが、花井、江木両博士に相談してからのことで、これからすぐに上京します」。倉皇として裁判所裏手に待たせてあった人力車に乗り、ほろを深く下して逃げるがごとく消え失せた。
1923年6月24日付読売朝刊はこう報じた。「竪絽」とは夏用の絽織の着物の一種。「仙台平」は仙台で作られる絹織物で袴(はかま)の最上級品。
大きく変わった“雲行き”
記事に添えられている「判決文の内容」で事実関係がどう判断されたか、性的暴行の部分を見る。〇〇にしたのは読売の判断で、配慮して略した部分もある(記事原文に注釈などを入れる)。