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「賀川豊彦氏の下で 懺悔した大野博士 細民のために奉仕す 『目賀田』と仮りの名で」の見出し。賀川豊彦は明治・大正・昭和に大きな足跡を残した社会運動家・宗教活動家で、出生地の神戸をはじめ、各地で貧民救済を続けていた。

 関東大震災の際も、関西から仲間と上京。本所区松倉町(現墨田区)の焼け跡に本拠を置き、テントを張って被災者救援活動を始めていた。記事の書き出しはこうだ。

「つい2、3日前、賀川豊彦氏の経営する本所松倉町のキリスト教産業青年会無料診療所へ、身なりの卑しくない医師が現われた。患者や看護婦から『目賀田先生』『目賀田先生』と敬われて、物言いといい診察の行き届いたところから、いずれは名医の成れの果てだろうと付近のうわさが高まった折柄、偶然にもこの目賀田医師は昨年春、横浜で凌辱事件を起こして医師会から免状を取り上げられた大野禧一先生の世間を忍ぶ仮の名であることが分かった」

 以下、震災後、関西から1万人分の医薬品を持ち帰って、横浜でひそかに被災者の医療活動をしていたが、医師会ににらまれ、実業家の紹介で賀川に協力を申し出たと書いている。

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 読売はその後も、大野博士の妻も含めて被災者・貧民救援活動に従事したことを報じるが、横山春一「賀川豊彦伝」のその時期の記述には「大野」も「目賀田」も登場しない。実際に活動の実績はあったとしても、誇大に語られたのでは? 有罪を予想したうえでの復権のためのイメージアップ作戦だったような気がする。

震災被災民救済に従事していると報じた読売

ようやくむかえた控訴審初公判の日…

 公判は震災などで延び延びになっていたが、1924年11月25日付時事新報に「信仰生活に入る」の見出しの記事が。読売同様、大野博士が賀川豊彦の引きで震災被災者の医療活動に従事。キリスト教信仰に傾いていると報じたが、記事の中で、弁護人と群馬水力電気の役員、小倉家側の弁護士の間で示談がまとまり「24日、東京控訴院に告訴取り下げの書面が出た」と書いた。

 ところが、約1週間後の1924年12月1日付読売朝刊は「小倉家の告訴 取下はうそ」と報道。この時、既に小倉鎮之助は亡くなっていたが、「遺言にも、必ず本件は最後まで強く争い、自分の意思を継いでくれ、とあるから」と家族は強硬で、うわさは事実無根と主張した。

 さらに年が明けた1925(大正14)年2月24日付読売朝刊は「ケ病がバレて 大野博士睨(にら)まる」と書いた。公判が延び延びとなって東京控訴院も弱っているが、「その間には示談になったとか、告訴を取り下げたなどのうわさが伝えられ、小倉家に対しては迫害の投書さえもある。それは全く大野博士の落ち度からきたもので、博士のざんげ生活も大きな疑雲に包まれている」との内容。

「ざんげ生活」は読売が報じたのだから“マッチポンプ”の報道だが、大野博士が診断書を添えて控訴審公判の延期願いを出したが、調べてみると病気ではないことが分かったとした。

 こうしたことから考えると、この事件と公判を通じて、事件を小さく収めることを狙って、大野博士の背後に何らかの力が働いている気がしてならない。それが医学界の一部なのか、実業家か政治家なのかは分からないが……。