その後も、京都帝国大学医科大学(現京都大医学部)から博士号を授与された学術論文が間違いだらけだったとされ、学位の悪用に制裁を加える学位令改正論議が巻き起こったり、大野博士が主任技師になっていた大阪の細菌研究所の不明朗な運営が問題にされたり、関連の記事が紙面をにぎわせた。
「無罪説」広がる
横浜地裁での初公判は1923年5月5日。翌6日付読売の記事は――。
医学博士・大野禧一に係る第1回公判は節句の5日午後1時、横浜地方裁判所刑事第二号法廷で開廷したが、定刻前から犇々(ひしひし)と詰めかけた傍聴人は「強姦堕胎未遂傷害被告人大野」と朱書された掲示板前に蝟集(いしゅう=1カ所に群れ集まる)し、身動きもできぬ雑踏を呈し、その中には横浜医師会長・得田保氏や市内開業医師ら数名も交じっていたが、女子の傍聴人は1人も姿を見せなかった。
かくて午後1時、大野博士は江木、花井、花本、山崎、吉住の5弁護士と自動車を駆ってひそかに裏門から地下室に姿を隠していたが、同30分に至って法廷に呼び出され、新保裁判長係り、田中検事、立ち合い5弁護士列席の下に尋問は開始された。田中検事は、被告に対する公訴事実は予審終結書記載の事実を簡単に述べ、さらに公安を害するところありとして傍聴禁止を求めたので、裁判長は合議のうえ傍聴禁止を宣告。事実の審問2時間にわたって証拠調べを終わって傍聴禁止を解いた。
同じ日付の東日は「若い婦人の姿も目立った」とあり、食い違いが甚だしい。読売には「法廷内の大野博士」の説明が付いた和服の写真が載っている。同年5月31日の公判には被害者の六女と母親が出廷。
今回も傍聴人が詰めかけ「午前11時、開廷するや、たちまち場内にあふれる盛況を呈した。せっかく座席を占めたものの、直ちに公安を害するとして傍聴禁止を宣告され、しぶしぶ退廷」(6月1日付読売)するありさま。尋問は3時間にわたった。
その読売の同じ紙面のトップ記事は「大野博士の罪の子は 既に四月堕胎さる」。体の異常で4月末に入院中、「医学上必要とあって秘密裏に流産した」と報じた。いまではとても考えられないプライバシー侵害だが、当時はそれほど気にしなかったのか。
この記事の末尾にはこんな記述がある。「凌辱に関する点は法の欠陥であり、堕胎は法医学上当然な処置であるという見地から、法曹界の人々の間には早くも無罪説が伝えられるに至った」。
同じ紙面には、事件を興味を持ってみているという大井静雄弁護士の談話もある。六女の妊娠中絶について「(旧)刑法第35条(『法令または業務上正当な行為はこれを罰せず』)を適用したのだろう」とし「この堕胎は罪にならない」と断定。そうだとすれば「大野博士が同じ必要から人工堕胎をやろうとして未遂に終わった行為も罪にならぬことになる」と論じた。
「博士大野がもし無罪となったら…」
読売は5月29日付朝刊で六女が体調悪化で出廷が危ぶまれていると報じた中で既に、母体保全のための妊娠中絶の可能性を指摘。「万一、医学上、肺尖カタルのために堕胎することになれば、いきおい被告大野博士の申し立てに有利な事実を加えることになる模様で、この公判に多大の期待をしている者が多い」と述べている。