大野博士は1928年に出獄。その後も「松倉町の診療所に、擦り切れた背広をまとい、1日百人余の患者を治療し、ざんげの日々を送っている」と書いている。
「大宅壮一選集第10人物群像」(1959年)は「武見太郎論」の中で医師を分類。「“色医”となると、むかし患者の少女を犯した大野禧一という博士が出て、世間に大きなショックを与えたものだが、この人は八十何歳かで、今も健在だという」と書いている。
「性生活の崩壊は文明組織崩壊の一症状」
ひるがえって、この事件が私たちに教えるものは何だろう。当時は雑誌でも大々的に取り上げられた。「なぜ世論はもっと大野博士糾弾で盛り上がらないのか」と憤慨する意見、当時の「乱れた世相」と結び付ける声……。
特に娘を持つ親の間で危機感が高まり、「私はか(こ)うして我子に性教育を施して居ます」「結婚する娘に親はどんな性的注意が必要でせう(しょう)か」というアンケート結果を載せた雑誌も。
「大野事件は、懸念されていた未婚の女性の性的無知による悲劇として新聞や女性雑誌に大きく取り上げられ、処女の貞操保護を目的に掲げた性教育論が数多く産出されたのである」=太田恭子「大正期の『母親による性教育モデル』の形成」(首都大学東京人文科学研究科「人文学報」2013年)。
そうした“純潔教育”を冷ややかに見る伊藤野枝(関東大震災後に大杉栄とともに殺害された)などは少数意見だった。
それから1世紀。インターネットの普及・拡大もあり、性の知識は世の中に充満している。女性の権利拡張も少しずつ前進しているといえる。しかし、現実の事件を見れば、性をめぐる問題は本質的な論議がほとんど進んでいない気がする。
医学界の体質、医師の倫理はいまも問われ続けている。政治の対応の遅れ、メディアのセンセーショナルな傾向も解消されていない。性をめぐる事件の多発を取り上げた「中央公論」1923年6月号の特集で、ジャーナリスト長谷川如是閑は、性道徳と文化の結び付きに着目。「性の生活の崩壊は文明組織の崩壊そのことの一つの症状にすぎない」と述べた。
当時、この事件の対極のように、都市化が進む中での都会の不良少女グループの存在が問題視されていた。事件の背後に社会と文化の変化が存在していたと考えると、現代にも十分通じるテーマのように思える。
【参考文献】
▽横山春一「賀川豊彦伝」 新約書房 1950年
▽大宅壮一「大宅壮一選集第10人物群像」 筑摩書房 1959年