1925年3月28日、ようやく開かれた控訴審初公判には被害者の六女が母親と出廷した。「大柄の銘仙の上下を着た」六女が母や書生と一緒に席に腰を下ろしたが「顔色は青白く、唇が小さく震えてハンカチーフを目に当てて泣くので、別室に避けさせる」(3月29日付読売朝刊)ありさま。
今回も「風俗を乱す恐れがある」として傍聴禁止となって審理が進められた。読売の記事には横から撮った六女の写真が添えられている。
控訴審の判決は…
そして一審判決からちょうど2年たった1925年6月23日の控訴審判決は――。
大野博士判決 一審の懲役六年が 一年になつて大喜び
強姦、傷害、堕胎未遂罪で先に懲役6年の言い渡しを受けた例の医学博士・大野禧一(49)はこれを不服として控訴中であったが、23日午後1時40分、東京控訴院刑事第一号法廷で、高瀬裁判長から強姦、傷害は無罪、堕胎未遂だけに懲役1年の判決言い渡しがあり、大野は非常に喜んで退廷した。
6月24日付東朝の記事はこれだけ。他紙とも全部がベタ(1段見出し)記事だ。それだけ人々の間で事件の記憶が薄れ、関心が薄くなっていたということだろう。
なぜ裁判官は性的暴行を無罪と判断したのか。6月26日付読売朝刊には「抗拒不能の状態で姦淫した点は、大野の陳述で、当時六女は黙示のうちに姦淫の承諾があったと信ずるのが相当であり、局部の傷害は証拠が薄弱」とされたとある。抗拒不能の問題はその後も性暴力の裁判でたびたび争点に。
記憶に新しいのは、2017年に福岡県で酔った女性に性的暴行を加えた男性が一審で無罪になった事件。
女性は抗拒不能の状態になっていたが、男性がそれを認識していなかったとし、「故意」が証明されないと判断された。女性活動家らから強い反発が起き、控訴審では「抗拒不能の認識があった」として逆転有罪。
その意味では、現代にも通じる問題をはらんでおり、当時も、新聞はもっとその点に関心を持つべきだったが、記者の側にその認識がなかったのだろう。
6月24日付読売朝刊は、寛大な刑に涙を流す大野博士の妻を取り上げたが、検察側は「事実認定に重大な誤謬があり、懲役1年の刑は失当」として上告。6月29日付読売夕刊の投書欄「斬馬釼(剣)」でも「1年は不服」「言語道断」という声が紹介された。
そしてまた丸1年後の1926(大正15)年6月25日。大審院(現在の最高裁判所)は大野博士に懲役3年を言い渡した。判決文には次のように記載されている。
判示事項 強姦罪の成立
判決要旨 医師がその治療患者たる少女の、自己を信頼するの厚きに乗じ、必要なる施術をなすもののごとく誤信せしめて姦淫したるときは強姦罪成立するものとす
6月26日付(25日発行)国民新聞夕刊は言い渡しの場面をこう記述している。
「島田裁判長は泣き暮れている大野博士に『医学博士としての社会的地位を持つ被告がこうした犯罪をなすのは憎むべきであるが、改悛の情顕著であるから特に軽い判決を下したものである』と伝えた」
6月27日付(26日発行)東朝夕刊には社会面最下段の短信に「大野博士服罪」の5行の記事が載った。
その後のことは、雑誌「婦女界」1931年4月号に載った冬木禮之助「身を過(あや)まつた女の行方2『性的無智から悲劇を生んだ小倉〇〇嬢』」(〇〇は六女の名前)という事件読み物に記述がある。六女は1927年に結婚して女児をもうけ、親子3人で幸福な家庭を営んでいるとした。