「会社を辞め、商売一本に励んだ結果、店は繁盛し、夫婦仲もむつまじい方だという」
新貝巡査について「警視庁史」は「額に径3寸(約9センチ)くらい無残に焼けただれた火傷を受け、多量の鼻血を出して即死」と記している。時事新報の記事は、末尾で現場の遺留品について触れている。
「便所のそばには賊の遺留品であるペンチ(針金を切る道具)、ろうそく5~6本が遺留してあった」。この道具の表記についても、のちの報道も含めてバラバラだ。時事新報の記事は関係者の身元にも触れている。
不測の災禍に遭遇し、不幸その職に倒れた新貝氏は2年前、警視庁の巡査を拝命。すぐ小松川署詰めとなり、以後、東京モスリン、明治製菓会社などの請願巡査として勤務していた。4日は、殉職中尉葬儀のため、天神橋派出所の巡査が青山方面へ応援に行ったため、その代わりとして派出所に詰めていた。性格は非常に豪胆で、平素の勤務精励ぶりが聞こえている。いまだに家庭を持たず、署付近の合宿所で寝起きしている。4日、地方裁判所から乙骨検事、柴判事、松鳥書記らが現場を臨検。新貝巡査の遺体は同日午後1時、日暮里火葬場でだびに付し、すぐ郷里・長野に送られるはず。
夫婦の素性は、夫喜一郎は福島県会津若松市の生まれで8~9年前、大阪の紡績会社社員となったが、間もなく上京。現住所近くの吾嬬町元亀戸にある(東京)キャラコ会社事務員となったが、当時、亀戸町の大工職・船見徳太郎という人物があり、同じキャラコ会社に出入りする中、喜一郎の実直なのにほれ込み、自分の娘・操を喜一郎にめとらせたのはいまから6年前。そして、喜一郎は化粧・小間物店を出し、多少の貯金もできたところへ、徳太郎の援助で3年前、数百円を投じて現在の場所に住居を新築した。同時に会社を辞め、商売一本に励んだ結果、店は繁盛し、夫婦仲もむつまじい方だという。
さんざん悪口を書いた最後に「…との説あり」
「東京モスリン」は「東洋モスリン」の誤り。紡織会社で亀戸の現場近くに工場があり、1925年に刊行された細井和喜蔵のルポルタージュ「女工哀史」の舞台になったとされる。1927年と1930年に大規模争議が起きて社会問題に。のちに鐘淵紡績(現カネボウ)に合併された。
請願巡査とは、民間会社などの要請で任命された巡査で要請したところが経費を支出する。モスリンはメリンスとも呼ばれ、和服などに使われた薄手の柔らかい毛織物のこと。「東京キャラコ」のキャラコは平織の綿布で、当時の日本では足袋や「ステテコ」(男性用の下着ズボン)の材料だった。
各社の記者は、近所の住民に聞き込みをして記事にしたのだろう。犯行の態様から、動機が一家に対する怨恨とも推測されたことから、うわさ話をあることないこと、そのまま書いたと思われる記事も目立った。