「喜一は平素高利貸しを営み、評判がよくなかった」(東朝)、「(みさをは)品行が甚だよくなくて、結婚後も不義の快楽にふけることなどがあって、とかく夫婦間の和合を欠いていた」(読売)……。極め付きは報知だ。
「(喜一は)実父某が財産家であることから、その金を引き出して高利貸しをし、暴利をむさぼったとその筋の耳に入り」勤務先を解雇された。資産家の番頭になって「ほとんど同人の財産を横領…」。結婚後も「(東京)キャリ(ラ)コや日清紡績会社の女工を周旋して悪銭をむさぼり」「田舎出の女を誘拐同様に女工に住み込ませ、発覚してその筋から差し止めらるに至った」……。さんざん悪口を書いた最後に「…との説あり」と逃げている。
「こういう犯罪は欧米諸国にもかつて聞いたことがない」
各紙の見出しは、電流による感電殺人という新しい犯罪の発生に驚きを隠さなかった。「稀有の犯罪現は(わ)る」(東朝)、「警官、賊に電殺さる 高壓線を用ゐ(い)たる怖(おそ)るべき新手の殺人」(東日)、「電氣應用の大犯罪」(都新聞)。
東日には、現場に現われた東京電燈亀戸出張所長の話として「こういう犯罪は欧米諸国にもかつて聞いたことがないと、調査に来た逓信省(当時)通信技手が驚いていた」「(犯行の)巧妙さは、半年や1年ぐらい電気職工をしたのでは到底できない仕事だから、よほど熟練した者の仕業だろう」と報じた。
なかなか普及しなかった日本の電気…電気事業では年平均5人の殉職者も…
日本で初めて電灯がついたのは1878(明治11)年3月。イギリス人技師が電池でアーク灯に点火した。一般家庭ではまだろうそくとランプの時代。実業家、華族らが発起人となって1886年に東京電燈会社を設立。翌年、鹿鳴館に商業用電灯が初めてともされ、火力発電所が次々建設されて電気供給が本格的に始まった。
しかし、普及には時間がかかり、電気事業連合会ホームページの「電気の歴史」年表によれば、現在の東京都の中心部に当たる当時の東京市内に電灯がほぼ完全に普及したのは、この事件の前年の1912年。
「東京百年史第3巻」は「世間一般では電灯に対する知識が浅く、電灯は火災を起こしやすいと考えたのである」と記述している。実際に電気に関する事故は多かった。
太刀川平治「電氣の災害に就て」(1927年)によれば、1889年から1926年までに東京で電気事業のために殉職した人は195人(年平均約5人)。うち8割は電線工事関係者だった。「いかに電線路で感電事故が多いかを知ることができる」と同書。大正2年の殉職者は8人だった。
「犯罪予防の方法が発達しないのに、悪事がますます進歩して…」
実際にもこのころの新聞紙面には感電や漏電事故の記事が目立つ。警官死亡事件と同じ1913年4月には、東京府下(当時)で15歳少年が電柱によじ登り、高圧線に触れて墜落。危篤になったと新聞に載っている。まだ一般庶民にとって電気は「怖いもの」だった。