出獄後、先に出ていた関口を頼って同居。2人で悪事をするようになった。正業に就こうと思ったこともあったが、元手の金を盗まれ、妻は他人の妾になっていることが分かり、「何一つ心にかかるものはない」と思った。四国の金毘羅参りに行ったが、その帰りに大阪で強盗・性的暴行をし、強盗に入る家を探しながら鈴ヶ森へ――。
こうしてみると、生来の性質に加えて、何も支えになるものがなくなったところから、重大犯罪に転落していったことが分かる。自業自得と言ってしまえばそれまでだが……。
「懺悔録」を残して刑についた石井
控訴審判決から約5カ月後の1918年8月18日、各紙にベタ(1段見出し)記事が載った。東朝の中心部分を見よう。
石井藤吉死刑
幾多の重罪犯人として耳目を聳動(しょうどう=恐れおののく)させた岐阜県人、石井藤吉(47)はさきに東京控訴院で死刑判決を受けたが、17日午前10時、東京地方裁判所・大平検事その他が立ち合い、東京監獄で死刑を執行された。第一審確定当時、宣教師であるマクドナルド女史から聖書1巻を差し入れられたのをいたく喜び、読みふけっていたが、獄中同人が執筆した懺悔録200余ページは、同人の希望で同女史に贈られた。同人は深く悔悟したもののようで、遺言もなく、満足げに刑に就いたという。
約1カ月後の9月27日、小守壮輔に無罪判決が下った。事件から3年半。長い道のりだった。これまでに彼を拷問したとされた警官4人のうち公判にかけられた3人は一審で無罪となったが、控訴審で執行猶予付きの有罪判決を受けていた。その後の小守の消息は伝わっていない。
古さと新しさの入り交じった大正の社会
この事件を振り返ると、残虐で猥雑でエログロのにおいが濃い中に、どこか牧歌的な空気が流れているのを感じる。その一方で、大衆化がさまざまな形で広がり始めているのが分かる。
事件報道は相変わらず無節操だが、拷問が問題になったように、人権意識も社会に芽生えている。それが大正という時代なのだろう。石井に遺言はなかったと東朝の記事にはあるが、「聖徒となれる悪徒」には、代わりに遺した辞世の歌が載っている。
名は汚し此の身は獄に果てるとも心は清め今日は都へ
【参考文献】
▽「警視庁史 大正編」 1960年
▽「大森区史」 1939年
▽加太こうじ「[明治][大正]犯罪史」 現代史出版会 1980年
▽白露生編「裁判物語 死刑より無罪へ」 大鐙閣 1917年
▽石井藤吉述、原戌吉編「聖徒となれる悪徒 石井藤吉の懺悔と感想」 石尾奎文閣 1919年
▽森長英三郎「史談裁判」 日本評論社 1966年
▽小泉輝三朗「大正犯罪史正談」 大学書房 1955年