12月4日発行5日付報知夕刊はこのように伝え、続けた。
「先に本件の真犯人として挙げられた小守壮輔は無罪放免となり、いままた石井藤吉はこの通りだ。久しく世間を騒がせたこの事件はいよいよ迷宮に入った次第で、わが司法警察権の威信に関する重大問題と言わねばならない」
小守の「無罪放免」は誤りだが、記者の認識はその程度だったのだろう。他紙も「自稱(称)犯人無罪となる」(東朝、東日)、「藤吉は眞犯人に非ず」(読売)、「お春殺し=再び疑獄となる」(時事新報)と書き立てた。
石井の“見栄”と“自己顕示欲”
時事新報は脇見出しに「検事も被告も意外に驚く=近頃稀有の事件」。「迷宮入り」と表現した新聞が多かった。
小原検事の談話も各紙にある。「検事局の方では、いかに考えても石井の犯跡は明瞭で覆い隠すことができないだけでなく、石井がもし真の犯人でないとすれば、到底現場の地勢をそのように明確に語ることはできないと思う。どちらにしても、石井が真犯人であることを私は確信する」(東朝)。
石井本人は「聖徒となれる悪徒」に「非常に一時は落胆致しました」と書いている。
裁判官ら司法関係者が石井の犯行を疑ったのは、自供内容が遺体や現場の状況と一部符合しない点に加えて、石井の“見栄”や“自己顕示欲”を感じたからだったと思われる。
石井はお春殺しの前後には愛知県で強盗のほか、追跡した警察官1人を殺害、1人に重傷を負わせている。
「横浜の事件と巡査斬りと強盗強姦と、ほかに十余件の強窃盗の覚えある者としては、鈴ヶ森は入っても入らなくても、死刑は最初から覚悟していたかもしれない」と「大正犯罪史正談」は書く。
石井と“犬猿の仲”だった武富弁護士は、読売の紙面で「無罪判決は当然」として冷たく語っている。
「石井が自ら進んでお春殺しを自白したのは」「警視庁での厳しい尋問の矛先を避けようと、ことさらお春殺しを名乗り、公判で否認する考えだった」「しかしその後、大槻夫妻の犯罪が発覚した結果、どうせ死刑は免れないと覚悟を定め、犯罪虚栄心に駆られて自白を維持したのだろう」
「死刑と聞いて嬉し涙」
それから2カ月足らずの翌1917年1月31日、石井藤吉は横浜地裁で、大槻夫妻殺害事件で死刑判決を受けた。「被告藤吉は満足げに微笑をたたえて裁判長に再三敬礼し、あくまで悠揚として被告席を立ち退いたのは面憎いほどだった」(2月1日付時事新報)。
その後、東京控訴院での控訴審は、弁護人の鈴木富士彌弁護士との折り合いもよく順調に進み、1918年3月16日の公判は16日発行17日付報知夕刊では「辨(弁)護人被告の有罪を主張す お春殺しの珍裁判」の見出し。