これに対し、著者が元検事だけに「大正犯罪史正談」は、人によって資料の判断は違うとし、「同一資料で異なった2人の犯人を結論してはおかしいが、全然別な資料に基づいて2人の犯人を指摘し、そのどちらの資料が当該事件と本質的な関係を持つのか、従って、どちらを真犯人とすべきかの判定に困難する時、事柄の重大性と困難性とに鑑みて、通常の行き方ではないが、裁判所の判断によって決する。これすなわち不見識とは言えない」とした。
「石井の無罪をそのままに見送ることができず、さりとて小守をサッパリと見切ることできないところに、人間を検事にしておく悩みがある」と同書は言うが、かなり苦しい解釈だと言わざるを得ない。検察内部に、拷問の事実を世間に訴えた小守への見せしめ的な意識があったことは間違いないだろう。
波紋を広げた“拷問の暴露”
小守に対する拷問は波紋を広げ、政治問題化する。東朝は1月27日付の社説で「犯罪の裁斷(断)」を見出しに、警視総監が犯罪捜査への影響を理由に従来の捜索・取り調べ方法の維持を表明したことを批判。「責任ある関係官庁は真相と経過を調べて速やかに公表すべきだ」と主張した。
翌28日付では「警視廰(庁)の拷問事件 議會(会)の問題とならん」と報道。同じ日付の時事新報も社説「拷問沙汰」で「政府や議会はイギリスの例にならい、審査機関を設けて調査すべきだ」とした。1月31日、弁護士協会は総会で布施弁護士から報告を受け、委員会を設置して問題を調査する方針を決めた。
そして、2月1日、弁護士でもあった高木益太郎・衆院議員は、現在の委員会に当たる第一読会で「警察の取り調べに当たって恐喝や詐言(だます言葉)を用いることを禁じる」条項を盛り込んだ人権保護法律案を提出。「小守に対する拷問の責任は?」と質問した。
これに対し、一木喜徳郎・内務大臣(のち宮内大臣、枢密院議長)は「事実関係を調べたうえ、相当の処分をする」と答弁。その後、東京地裁の小原直・上席検事(のち法相)は拷問をしたとされる刑事を召喚。取り調べた。その結果、警視庁刑事部の2人と品川署の2人の巡査計4人が起訴され、辞表を提出した。
「死体の処置に困り、はじめは鬼子母神堂裏の池や井戸に沈めようと深さを測ったが…」
1916年4月26日、石井藤吉は他の強盗、女性暴行などと合わせてお春殺しの予審で有罪となり、公判に付されることに。27日付東朝によれば、犯行の内容は次の通りだった。殺人がいとも簡単に行われていることに驚く。
1915年4月29日午後10時ごろ、府下荏原郡大井町1935、鬼子母神境内にある掛け茶屋の腰掛けで休息していた際、同町、田中はる(当時26)が傍らの海岸道路を通行するのを見て、にわかに恥ずかしめようとの念を起こし、約3間(約5.4メートル)尾行。はるの袖をつかんだところ、「人殺し」と叫ばれたため殺意を生じ、はるをうつぶせにすると同時に、背中に右足をかけて、その前にのどにかけた手ぬぐいを極力後方に引いたため、ついに窒息死させた。