昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2022/08/28

「いましかない。これだったら私にもできるかもしれないんだ」

――特待生というのは?

後藤 授業料が免除されます。代アニには寮もあるので、寮費さえ賄えればどうにかなりそうだな、そのときの貯金でギリギリいけそうだな、と。そう思ったら、もう大学の退学届けを書いていました。

――本当に行動が速いですね。でも、ご両親は反対したのでは?

後藤 両親は絶対に反対すると思ったので、親の署名は自分で書きました……(笑)。

――……それ、上京する段階でバレますよね?

後藤 はい……。上京の直前に「お話があります。今から東京の代々木にある学校に行きます。で、大学はもう退学しました」と打ち明けたら、両親は大泣きして反対し、M先生にまで泣きついたんです。

 でも、「いましかない。これだったら私にもできるかもしれないんだ」と訴えたら、M先生は納得してくれて、東京の大学病院で医師をしている知人に私を紹介してくれました。さらに、おこづかいまで持たせてくれました。両親は「話が違う」と(笑)。

 結局、「最後まで反対したら邑子が家に帰りにくくなる」と家族も折れました。勢い、身ひとつで飛び出すように東京に出てきたんです。

突然の妹の死。そして…

代アニ寮時代の後藤さん(後藤さん提供)

――代アニを卒業してからは、どういうルートで声優になったのですか?

後藤 声優事務所の附属養成所に入りました。ただ、しばらくして、3歳下の妹が急に亡くなったんです。19歳でした。

 妹は持病はなく、地方の大学の寮に入っていたんですけど、夜寝ているあいだに心不全を起こしたそうです。健康な人でも起こす可能性があると医師に説明されました。

 喪失感で、何も考えられませんでした。一日ただ怒って、泣くだけ。結局、養成所にも行かなくなりました。実家に戻ったりもしましたが、悲しすぎるときって、痛みを分かち合うことさえ難しいんですよ。妹についての記憶がちょっと食い違うだけで、私と母はすぐ泣いてケンカになってしまう状態で……。

 何もすることはないけど東京に戻りました。何もしないまま、友人たちに助けられて生きてました。今でもその友人たちは、「当時の私らは、まるで天使だった」と言います。相当、迷惑をかけたんでしょうね。

代アニ寮時代の友人たちと(後藤さん提供)
代アニ寮時代の後藤さん、寮の友人たちと(後藤さん提供)

 三回忌の頃には、深い悲しみは、静かな悲しみへと変わっていました。そうして気持ちが落ち着いてくると、周囲が妹に対して「可哀相」という言葉に腹が立ってきたんです。