1ページ目から読む
2/7ページ目

 中山歌子宅で俳優三名の毒死 遺書もなく疑はしい

 府下荏原郡碑衾村(現東京都目黒区)大岡山37、元日活映画会社女優・山中さだこと中山歌子(28)方同居の同人のめい・ひで(9)、俳優・山中徹三(23)及び、同人の情婦・山中ぬひ(い)=25=は、主人歌子が病気療養のため、3~4カ月前から鎌倉方面に出かけた後の留守を預かっていた。4日午後6時ごろ、3人は散歩姿で外出したまま、付近の人にも姿を見せず、同家は5日夕刻に至っても戸締りをして人の気配もないので、付近の人が不審を抱き、雨戸をこじ開けて屋内に入った。2階の居間をのぞいてみると、蚊帳の中に徹三とぬひの2人は同じ寝床に、ひでも同じ蚊帳の中に枕を並べて絶命しているので大いに驚き、直ちに目黒分署に急報した。係官が出張。同夜10時ごろ、検視をしたが、自殺を図ったものらしい。いまのところ遺書もないので、原因は一切不明だが、死体は布団を被ったまま、さながら就寝した時と変わらないところから見て、あるいは毒薬自殺ではないかと見当をつけ、警視庁鑑識課、捜査課員らが現場に出張。取り調べを続けている。

 口から血を流していたことから毒殺の見方が出たとみられるが、「毒死」と平気で確定的な見出しを付けるあたりが当時の新聞の事件報道の無責任さを表している。

女優一家3人殺しの第一報。当初は自他殺がはっきりしなかった(東京朝日)

 同じ日付の東京日日(東日=現毎日)はもっと慎重で、主見出しは「中山歌子の自宅で 謎の如き三人の死」。内容も「他殺か自殺か死因も怪しく、勝手元に劇薬空き瓶があるところからみて、あるいは劇薬自殺ではないかともみられ」「付近には1通の遺書らしい物もなく、死因はいまのところ全く不明である」と抑えた書きぶり。

 固有名詞や年齢なども相当いいかげんで、中山歌子は「キネマ旬報増刊 日本映画俳優全集・女優編」(1980年)によれば、1893年11月生まれだから、この時は満で32歳。別の資料では本名は「杉山さだ」となっている。

ADVERTISEMENT

 9歳の女児は正確には「ふさ」で歌子の養女。ぬいは歌子の父親の養女だから義妹ということになるのか。「山中徹三」とされたのは清水徹三で、ぬいとは結婚したばかりだった。「俳優」は誤りで広告会社で図案係をしていた。

殺された中山愛子とふさ(子)の写真(東京朝日)

「日本映画俳優全集・女優編」によると、中山歌子は1911年、帝劇歌劇部の第1期研究生となり、多くの舞台に出演。第一線の歌劇女優としてしられるようになった。その後、レコード発売に加えて映画にも進出。日活のトップスターとして活躍した。1922年には「船頭小唄」を吹き込んで大ヒット。しかし、肺結核に冒されて1923年には事実上引退していた。

 ぬいも歌子が主演した舞台に「中山愛子」の芸名で出演。日活向島撮影所でも一時、女優として映画に出ていた。2人の名前の表記は新聞でバラバラだが、「中山歌子」「中山愛子」で統一する。

殺された愛子は「日活の元スター」

 事件の見通しは9月6日発行7日付夕刊になっても揺れ動いている。3人の死因が絞殺と判明。読売は「元日活の女優中山歌子の 妹夫婦と養女殺さる」の主見出しだが、金品の被害がはっきりしなかったためもあって、脇見出しでは「物盗りでもなく自殺説もある」。報知も「他殺らしく警視廰(庁)で捜索中」と頼りない。