記事には、遺体の腐敗が激しく、近親者ですら誤認したという警視庁捜査課長の談話や、「解剖の目的は死因で、年齢は問題にされていなかった」という東京帝大(現東大)の解剖医の弁解も載っているが、遺体の取り違えは法医学者として体裁が悪かったのは間違いない。
こうした経緯から、各紙は「探偵小説以上の 行李詰犯人捜査」(8月25日付報知朝刊)、「惨殺の屍・替玉の怪兇行」(同日付國民)などと書き立てた。のちに全容が解明されて、「替玉」は虚構だったと分かるが、捜査ミスと新聞の競争激化がこうしたセンセーショナルな報道を生んだといえる。
8月26日付読売朝刊は社会面トップで「謎の醤油屋殺しを 讀(読)者はどう観(み)るか 懸賞で投書大歓迎」という企画を打ち上げた。同じ日付の報知は「探偵小説家から見た 行李詰の怪事件 私が警官だつ(っ)たらかう(こう)して捜査」と題して、有名な推理作家だった江戸川乱歩や探偵雑誌編集長・森下雨村らに事件を推理させている。
「疑われる運転手」の登場
こうした間にも、参考人として取り調べを受ける人物は次々現れた。被害者は貸金業もしており、犯行動機は金絡みとみられた。その中で8月25日付國民朝刊は「疑は(わ)れる運轉(転)手」の2段見出しで、警視庁が、山田の借家に住んでいて家賃をため、その後も多額の金を借りている運転手を事件と深い関係があるとみて捜査している、と書いた。
名前は「特に秘す」としたが、実質的な特ダネだったようだ。実名を報じたのは8月27日付の東朝と東日の朝刊。
東日は「怪事件の捜査網擴(拡)大す」の記事の中で、「山田と深い関係にある(東京)市外杉並町(現東京都杉並区)馬橋145、自動車運転手・五味鐵雄(37)を(26日)午後1時ごろ、警視庁益子刑事が出張して自動車で引致。田多羅、斉藤両警部が取り調べ、重大な関係者として留置し、同人の関係筋につき凶行当日の行動その他について精査を続けている」とした。この記事では「鐵雄」となっているが、「鉄雄」とした新聞も。判決文では「銕雄」としているので、それに従う。
東日には「大岡山事件當(当)時も 嫌疑を受けた運転手」の小見出しで次のような別項記事が見える。
「先に本紙で名を秘して報道した、山田が恐れていた人物の1人。大正14年の春ごろ、山田の貸家に居住していて、市外大岡山3人殺しの当時は、五味の妻の関係からその事件でも有力な嫌疑者として取り調べを受けたほどの人物」
「生活は非常に苦しい。最近では日歩30銭の高利で借りてやりくりしているほど。非常に大酒飲みで、しかも乱暴をする。けんかの時は丸裸で地上に寝てたんかを切り、顔にはものすごいカミソリの傷痕がある、甚だ粗暴な人物」
「五味の妻の関係」とは、五味の妻が被害者・清水徹三の姉だったこと。当時も名前が浮上したが、裏づける証拠がなかったようだ。