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 五味田署長は警視庁刑事部長に報告。東京地裁検事局と打ち合わせ、中島検事が取り調べたところ、「田宮の自白する点は、当時検証した現場の状況と寸分違いなく符合するほか、警視庁が手の届かなかった点まで秩序的に自白したので、物的証拠の収集に努めることになった。判明のうえは強制処分で刑務所へ収容する手はずになっている模様である」と記事は結んでいる。

「自白だけで証拠品一つも挙がらず」

 他紙も「大岡山三人殺し 嫌疑者自白」「犯行を悉(ことごと)く自白す」などと報道。これで一件落着のように見えたが、そうは簡単にいかなかった。

 10月8日付報知は「殺人強盗で起訴さる 物的証拠も大半発見」、10月8日発行9日付東朝夕刊は「田宮令状執行さる 市ケ谷へ収容か」と伝えたが、これはいずれも誤報だったようで、報道は迷走していた。

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 10月11日発行12日付國民夕刊は「眞(真)犯人と睨(にら)んでも 起訴できぬ田宮頼太郎」と社会面トップで報道。理由を「自白だけで証拠品一つも挙がらず」とした。発生当時、鑑識課長が漏らしたように、複数犯の可能性を否定できず、田宮の共犯を探したが見つからなかったこともあったのだろう。

 結局、田宮を同行させて現場の再検証を実施したうえ、10月12日、起訴、収監した。それを報じた10月13日付東朝朝刊は「三人殺し證據の指輪 つひに發見さる」と、被害品の1つで、田宮が女にあげた愛子の指輪を押収したと書いたが、のちにそれは別の指輪と判明した。自供のみに頼った起訴、収監だったといえる。

 その東朝や東日には田宮の写真が載っているが、右目に眼帯をしている。東朝の写真説明は「希代の兇漢、田宮頼太郎(写真は犯行翌日銀行に現れた当時の服装をしたもの)」とある。

田宮に「犯人」と同じく眼帯をさせた写真(東京朝日)

 容疑者に「犯人」の格好をさせたわけで、いまならとても考えられない違法な見込み捜査。元東京地裁検事・田中良人の「強力犯捜査要綱」(1948年)は次のように批評している。

「当時、捜査官が冷静に同人の自白(虚偽の自白)の内容を分析、判断したならば、その不自然な点を発見し得たのではなかろうかと思われる。例えば、田宮単独の犯行として強盗殺人を行うのに、3人を一時に絞殺することは可能であろうか」

「田宮のほかに共犯ありと見るべきではないか」

「葬り去られた 大岡山三人殺し」

 田宮は予審判事の調べに移されたが、その後のことは全く報じられていない。それから約1年3カ月後、時代は大正から昭和に変わった1928年1月27日発行28日付東日夕刊にベタ(1段見出し)記事が載った。

 三人殺し犯人 獄中で重體 實家へ引取方を通知

 目下市ヶ谷刑務所収容中の大岡山三人殺し犯人、田宮頼太郎は、東京地方裁判所・塚田予審判事係りで1年近く審理されている。その間、田宮は素直に犯行を自白しているが、何分にも物的証拠がなく、ために予審決定に至らなかった。田宮は昨年秋ごろから腎臓結核を患い、昨今は病勢がますます進み、全く絶望の状態に陥ったので、塚田予審判事は同情し、27日朝、郷里千葉へ電報で引き取り方の通知を発した。