仮出獄させるつもりだったというが、手遅れだった。田宮は1月27日午後、死亡。1月28日発行29日付夕刊は東朝が「疑問を残して 田宮死亡す」、東日は「葬り去られた 大岡山三人殺し」とそれぞれ2段見出しを立てた。
東日の記事は「同人を真犯人なりと認めるのは、わずかにその自白によるのみで、物的証拠とては1つもなく、従って係りの塚田予審判事も約1カ年の審理でいまだ確信がつかず、いかに結末をつけるかに迷っていた矢先。同人の死により公訴権が消滅したことは、事件をあいまいに葬ったわけで……」と記述。坂田豊喜弁護士の次のような談話を「犯人は必ず他にある」の見出しで添えている。
あの事件は某署の巡査部長がスパイとなって田宮の隣家に住み込み、探り出したことで、その経路を見ると、あまりに無理が多く、どうも田宮が真犯人だと思われぬ節が多い。僕が刑務所に田宮を訪ねた際も、田宮は「いったん自白はしたが、公判へ行けば覆すつもりだ。親戚や友人には十分合わせる顔がある」と言っていた。どうも僕は真犯人は他にあると思う。
50歳と16歳の遺体を取り違え!?
それから約7カ月たった1928年8月下旬、東京でまた大量殺人事件が起きた。8月22日発行23日付東日夕刊社会面トップの記事を見よう。
夫婦を絞殺して 押入の中に隠す 失踪と見て捜索中に偶然發見 北千住の怪事件
21日午後11時40分ごろ、府下千住町中組195、味噌醤油小売業・山田角次郎(50)、妻まち(43)の両名が何者かに絞殺され、角次郎の死体は2階の押し入れに、まちの死体は階下の押し入れに投げ込まれてあるのを、夫婦が失踪したとみて捜索に来た同家の親戚が偶然に発見。大騒ぎとなった。千住署に届け出たので、同署から警視庁に急報。22日午前5時、警視庁刑事部から中村捜査課長、田多羅、斉藤両警部、吉川鑑識課長らが現場に急行した。種々調査の結果、死体は大学病院に送って解剖に付し、犯人捜査中だが、犯行は19日深夜に行われたものらしい。
当時は正式な警察発表などはなく、記者は警察幹部や刑事らから口頭で情報を聞いていたため、住所、氏名などの誤りは日常茶飯事で、「角次郎」は「角三郎」、「まち」は「まつ」の誤り。
同紙は、「行方を晦(くら)ました 疑問の雇人」の見出しの別項記事で、1カ月前に雇い入れた渡邊嘉一郎(16)の姿が見えないため、「渡邊は有力な嫌疑者としてにらまれている」と書いている。
東日の同じ紙面には「行李詰の怪死體 荒川放水路に漂著(着) 一見地方の豪家らしい四十男」の2段見出しの記事もある。「行李(こうり)」とは、柳や竹で編まれた衣類などの入れ物のこと。8月23日付東日朝刊は「謎を包む二つの怪事件」として醬油屋夫婦殺しと行李詰め死体を取り上げ、雇人も殺された可能性を指摘した。
ところが、8月24日になって事態は急変。「意外、行李詰は主人 押入のは小僧の死體」(8月24日発行25日付東日夕刊見出し)だったことが分かる。
「50歳と16歳の死体の間違い??? まるで小説のような殺人事件をめぐって、全然捜査方針の立て直しを行うに至った」と書いた同紙は8月25日付朝刊で「死體誤認の失態に 果然非難の聲(声)起る」と批判した。