「奇怪な三人殺しの 有力な嫌疑者捕は(わ)る」とした9月7日付東日朝刊は、「その夜訪づ(ず)れた怪しい人物」に注目。同日付國民は「嫌疑者の行方 捜査に活動」、9月8日付都は「三人殺しは今(日)明日中に逮捕」と報じた。
歌子の姉や甥、徹三の兄の知人らのことだったが、全員嫌疑が晴れ、9月9日付都は早々と「確たる證據(証拠)があがらず 事件は迷宮に入る」と報道。その後も「捜査に光明か」「目星がついた 三人殺し犯人」などの記事が出たが、事件は未解決のまま、約1年が経過した。
その間、中山歌子は宗教に走り、翌1926年3月17日付東朝朝刊には「天理教に入つ(っ)て 奉仕の中山歌子 大岡山三人殺しの悲劇から 奈良丹波市町に隠る」という記事が載った。雑誌「主婦之友」1926年5月号のインタビューでは事件についてこう語っている。
「私は自分一人が残ったことを、少しも幸福だとは思われません……。一家を養うために犠牲となった私は、職業のために結婚もできなかったのです。せめて妹夫婦によって山中の家を継いでもらおうと考えていましたのに、それも駄目になってしまいました。ことに不治といわれる胸の病気の私が今後どうして一人寂しく生きていかれましょう」
事件のショックも影響したのだろうか。元検事の小泉輝三朗の著書「昭和犯罪史正談」によれば、事件から3年後、「真犯人」が逮捕される前の1928年4月、病気で死去した。満34歳だった。
「大岡山三人殺しの 有力なる嫌疑者 偶然にも…」
「大岡山三人殺しの 有力なる嫌疑者 偶然にも一年振(ぶり)で 日暮里署の手に検擧(挙)さる 平塚町の金貸業者」。こんな見出しの記事が躍ったのは1926年10月6日発行7日付東朝夕刊。リードの中心部分は次のようだった。
事件発生以来1カ年を経てなお犯人は全く目星がつかず、事件はいわゆる迷宮にいると伝えられつつあったが、日暮里警察署において詐欺被害者としてさる(9月)28日以来、同署で取り調べ中だった府下平塚町小山303、金貸し業・田宮頼太郎なる者が偶然にも、取り調べの進行につれ、大岡山の3人殺しは同人の行為と認めるべき跡が歴然としてきたので、同署及び警視庁では、これこそ昨秋以来厳探中の真犯人と見極め、極力物的証拠を集めるため、同人方の厳重な家宅捜索を行うとともに、各方面に刑事を派遣して同人の周囲、環境について取り調べ中。
記事はほかには事件の経緯をつづっているだけ。嫌疑の根拠は、のちに同紙が報じる「寝言」だけで、物的証拠が何もないことが推測できる。次に東朝10月7日付朝刊にはそのいきさつがある。
同人(田宮)は9月21日、府下日暮里町1057、染物業・川上留吉を相手どり150円の詐欺告訴を日暮里署へ提起したので、2回ほど同署へ出頭。取り調べを受けたが、その際、田宮の態度その他に注意の目を見張った五味田(秀)署長は、何らかほかに大犯罪があるものとの予感を得た。同人の住所、人相、年齢などから調査したところ、大岡山殺人犯人と符合する点があるので、9月28日、あらためて同人を召喚。署長室へ呼び入れ、署長自ら「いつまでも厄介をかけないで、男らしくすっかり白状したらどうだい」と高飛車に問いかけて取り調べを始めたところ、「千円ばかりの詐欺があります」と彼は恐る恐る答えた。これに勇気を得た署長は「そんな小さい問題を聞いているんじゃないぞ」と畳みかけると、田宮は顔面蒼白となってうつむいてしまい、「あすまで待ってください」と言うので、拘留処分に付した翌29日、取り調べの結果、昨年9月4日夜、強盗の目的をもって中山歌子方押し入ったことを自白した。