『孤島の飛来人』(山野辺太郎 著)中央公論新社

 大手自動車メーカーに勤める若手社員の吉田は、新たな移動手段の開発を進めている。だが、経営危機で会社がフランス企業の傘下に入ることになり、不採算部門として整理される前に、ある実験を強行する。それは飛行機でも、ドローンでも、空飛ぶ車でもなく、「風船飛行」だった――。山野辺太郎さんの新刊『孤島の飛来人』は、こんな奇想天外なシーンから始まる。

「風船で空を飛ぶという発想のきっかけは、僕が高校生のころにニュースになった“風船おじさん”です。ゴンドラに風船をつけて琵琶湖の湖畔から飛び立ち、太平洋上で消息を絶った、途轍もなく壮大で大胆極まりない人に不思議と惹かれて。突飛な着想を突飛なまま小説の形に育てることには苦労しました」

 巨大な6つの風船で飛び立ち、小笠原諸島の父島を目指す。降りるときは風船を割るというシンプルすぎる構造だが、アクシデントに見舞われて、別の島に不時着してしまう。意識が戻ると、サトウキビの槍を持った住民に囲まれていた。〈貴様、日本人かっ〉と威嚇する言葉は日本語、見かけも日本人なのだが、洞穴の奥の部屋に監禁され、大木と名乗る看守に取り調べを受けることに。そして獄中で、大木から聞いた話を「業務日誌」に記していく。

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「日誌を書くことが組織の一員である証であり、彼を生かしていく。僕は就職する前、大学院でドイツ文学を研究していて、カフカが好きだったのですが、彼の作品には勤め人小説の側面もありました。『変身』の主人公は毒虫になっても出社しようとするし、『城』は測量士として雇われた男がいつまでも城に入れない話。組織の中で個人が生きることの意味を描きたかった」

 不時着した島の名は、北硫黄島。戦後77年、この島には忘却されつつある悲話がある。

「硫黄島は太平洋戦争の激戦地として知られますが、北硫黄島にもかつて住民が暮らしていました。戦禍を避けるために本土に疎開させられて以後、無人となります。住み慣れた土地を離れなければならなかった人たちの無念さを思いつつ、小説ならば、密かに島に残った人々によって生まれた国を描けると考えました」

 想像を広げて初稿を書き終えた山野辺さんは、現実の島の姿を見たいと強く思うようになったという。

山野辺太郎さん

「父島を経由して南硫黄島、硫黄島、北硫黄島を周回するクルーズに参加したんです。上陸はできませんが、2万人以上が亡くなった硫黄島では洋上で献花が行なわれました。続いて訪れた北硫黄島の付近でも、花を手向けようとする人たちがいる。僕ははっと気づいたんです。確かこの島で機銃掃射によって命を落とした少年が一人いた。そのことを思い起こして、彼の死を悼む気持ちが湧きました。風船で飛ぶホラ話を入り口にして、硫黄島の戦いなど、現実離れした現実である戦争の記憶を継承していくことができたら、と改めて思ったのです」

 山野辺さんは、戦争の惨禍だけを語るのではない。戦中の場面で、『万葉集』の東歌(あずまうた)「信濃道(しなのぢ)は今の墾(は)り道刈りばねに足踏ましなむ沓(くつ)はけ我が背(せ)」が引用される。信濃路は新しく切り拓いた道だから切り株を踏まないように靴を履いてくださいね、と妻が夫を見送る歌だ。ある軍人はこの歌を踏まえ、部下に〈千数百年のかなたから、名も知れぬ一人の女が、君のことを気遣っている〉と諭す。

「無名の人の和歌が、遠い未来の誰かをわずかでも励ますことがある。文学にはそうした力があると思っています」

やまのべたろう/1975年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業後、同大学院人文社会系研究科修士課程修了。2018年、『いつか深い穴に落ちるまで』で第55回文藝賞を受賞。本作の他に文芸誌に掲載された「こんとんの居場所」「恐竜時代が終わらない」などがある。