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 おそらく、将棋の実力ではすでに関根が小野を上回っていただろう。だが当時の有力者が「小野の次は君だから」と関根を説得して、関根も小野の十二世名人就位を認めることになった。小野がすでに高齢だったことも、あるいは関根が挑戦状を撤回した理由としてあったかもしれない。

 ところが小野は89歳の長命を保ち、関根が十三世名人に就いたのはすでに盛りを過ぎていた53歳の時だった。すでに終生のライバルである阪田三吉や、一番弟子の土居市太郎のほうが棋力は上だっただろう。このことが関根に実力制名人戦導入を決意させたとも言われる。

 なお関根は後年、小野に挑戦状を送ったことを「生涯の一大過失」「今にして考えれば何という無礼、何という暴挙、まさに臍をかむ思いである」と振り返っている。ちなみに小野―関根戦は小野86歳の時に実現し、右香落ちで上手の小野が勝っているが、これは関根が花を持たせたと見るのが通説である。

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木村-土居、升田-大山……世代を超えたタイトル戦の系譜

 かくして実力制名人戦が導入され、将棋のタイトル戦の歴史が始まった。栄えある第1期名人に就いたのは、最強をうたわれ、衆目共に認める名人候補だった木村義雄。続く第2期で木村への挑戦権を獲得したのが、当時52歳の土居市太郎である。現在のA級順位戦に当たる名人挑戦者決定リーグで13戦全勝という数字を残したのもすごい。

2023年中に「八冠制覇」の可能性もある藤井聡太王将 写真提供:日本将棋連盟

 両者の年齢差は18。このこともあって戦前の予想は木村有利の声が強かった。実際、4勝1敗で木村が防衛したのだが、土居が勝利した一戦は「定山渓の決戦」という名局として知られている。そして木村は防衛を果たした直後に「300年に一人出る天才」として土居を称えたそうだ。

 実力制名人戦導入を決めたのは土居と木村の師匠である関根だが、もしそれ以前の終生名人制が続いていたら、関根のあとを継いで名人になったのは誰だっただろうか。関根の一番弟子で実績もある土居名人が誕生したことはほぼ間違いない。そして土居は実力制名人戦に異を唱えようと思えば唱えられる立場や実力もあった。その観点では、関根と同じく地位にこだわらない土居の潔さ、そして新たな制度のもとで挑戦者に名乗りを上げた棋才は称えられるべきであろう。