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 6月15日付國民朝刊は初公判の記事に次のような見出しを付けた。「公判廷の出齒龜 出齒龜出齒らずと言張(言い張る)」。暴行致死という重大犯罪の裁判にしては、報道全体として態度が軽いように感じるが……。

裁判の関心は高く、法官席や弁護人も挿し絵に取り上げられた(時事新報)

 6月16日付東京二六新聞は1面のコラム「二六ポンチ」で「今にこんな制札が立つであろう」の説明を付け、「これより大久保村」の道標がある集落の外れに「危険につき女人禁制 新宿署」という立て札が立っているポンチ絵を掲載した。

「危険につき女人禁制」と事件を取り上げたポンチ絵(東京二六新聞)

 その後の公判でも被告・弁護側は一貫して「自供は警察官の拷問によるもの」とし、犯行を否認。被害者の夫や遺体を発見した巡査らは証言したが、弁護側が申請した被告の妻や鑑定医の出廷が認められなかったため、澤田弁護士は裁判官全員を忌避する一方、裁判長の「傍聴禁止」も繰り返された。

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 8月7日の論告求刑公判では、傍聴席が早々と満員になり、入りきれなかった傍聴希望者がドアが開くたびに廷内をのぞこうとしたことから、8月8日付東朝は「傍聴人も出齒龜式」と見出しを付けた。

 弁護側は自供内容と現場の状況が合わないうえ「被告は女色は好まず」と主張。報じた同じ日付の読売は「出齒龜は果して犯人乎」の見出しで被告・弁護側に理解を示した。

 1908年8月10日の判決。検察側の主張をほぼ全面的に認め、亀太郎に無期徒刑(現在の無期懲役)を言い渡した。被告・弁護側は控訴。控訴審には人権派弁護士として有名だった花井卓蔵らも弁護に加わったが、翌1909年4月の控訴審判決もあらためて無期徒刑。上告も同年6月に棄却されて刑が確定した。

判決は「無期徒刑」だった(時事新報)
上告は棄却され、無期が確定した(時事新報)

言葉はたちまち流行語になり…

 この間には「出歯亀」は社会に広まって定着した。「出歯る」まで「色を好むこと。姦淫すること」と小峰大羽編「東京語辞典」(1917年)に載るほど。1908年7月24日付読売にはこんな記事が載っている。

「見たり聞いたり 近頃、新橋、赤坂方面で『出歯亀の歌』というのがはやる。『おぼろ夜に 人影さえも絶えてなく 惨澹(さんたん)たるかな 大久保の 湯屋の帰りに 小夜嵐 哀れ艶子の身の最後』」

「亀太郎は冤罪」と訴える人々はその後も…

 その後も「亀太郎は冤罪」と訴える人はいる。小沢信男「八十三年ぶりの『出歯亀』」(「新潮45」1991年2月号所収)は現地を歩いて立証しようとしている。

 その記事が取り上げているのが、「瞼の母」など股旅物で知られる作家、長谷川伸の冤罪説だ。小説などの材料にするためらしい、書き損じの原稿用紙の裏に書き留められたメモが死後大量に見つかり、雑誌連載後「私眼抄」(1967年)として刊行された。その中に「出歯亀冤罪」という小文がある。知人の手記を基に亀太郎のアリバイを主張している。

 亀太郎が尼ヶ崎屋(居酒屋)で酒を飲んだのは午後七時半過ぎだ。そこから約1丁(約109メートル)の四谷大番町八、女髪結・吉田きく方へ行った。

 

「今日手間(賃)を余計もらったから一杯ひッかけた」

 

 といって大の字になり入口三畳の間に寝入り、午後十一時頃、吉田方の者に起こされて帰った。家へついたのは十二時近くだった。