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120年前に産声を上げた「甲府」。なぜこの場所に…?

 甲府駅は、1903年に開業した。甲府駅のすぐ北西には愛宕山という小高い山があり、それを避けて甲府盆地を西進するためには、お城の跡をぶち抜くしかなかったのだろう。

 お城の南には甲州街道沿いの市街地がすでに形成されていたし、それより南を通すには迂回に過ぎる。それに、江戸時代は幕府の直轄地として過ごしてきた甲府のお城、明治政府にとってはぶち壊して線路を通すことなど何のためらいもなかったのかもしれない。

 開業した頃の甲府駅の南口、お城のすぐ近くに置かれていた武家屋敷などはまとめて官公庁街にリニューアルされていた。このあたりからも甲府城下町の形を明治以降も維持していこうというこだわりはほとんどなかったことが見えてくる。

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 江戸時代以来の庶民の町、つまり町人エリアはいまよりも東側にあったが、時代とともに官公庁街に近づくように西に移動していった。明治時代には刑務所が置かれていたいまの平和通り西側エリアも、拡大していく市街地に飲み込まれていき、戦後の復興計画を経ていまの甲府の町が形作られたのである。

 

ふたつの城下町を持っていた「甲府」という場所

 ちなみに、肝心要の信玄公。彼が甲府駅で分断されている甲府城で暮らしていたことはない。今に続く甲府の町のはじまりは、信玄の父・信虎が石和から居館を移して甲府の町の北の端っこに館を置いたことにあるという。それが躑躅ヶ崎館で、いまでは武田神社になっている。

 北の端っこというと不便そうに感じられるかもしれないが、山に接して盆地の入口にあたり、盆地全体を把握できるその場所はまさに格好の国の守りの本拠地だった。それから信玄、勝頼の三代にかけて、盆地の北側(つまり駅の北側)に武田の城下町が築かれた。

 ところが、1582年に武田は滅ぼされてしまう。いろいろな曲折を経て徳川家康が甲斐を治めるようになると、お城は信玄の躑躅ヶ崎館から南側、いまの甲府城の地に移された。城下町も新たな甲府城の周囲に移されて、町人たちも引っ越すことになったのだとか。

 つまり、甲府の町は信玄公の時代の城下町と、江戸時代の城下町、ふたつの城下町を持っている。古い城下は“上府中”、新しい城下は“下府中”などと呼ばれていたという。