住居や家族関係についての記述もある。
住所の模様 四軒長屋の一軒で六畳、三畳の二間だけ。表入り口の戸は破れて板を押し当てているなど、いかにも体裁が悪い。
同人らの家族 2人の間には姉のぶ(12)、弟・榮長(11)の2人の子どもがある。榮長は小学校に通学。のぶは家にいて(このに)使われているが、何となく実子とは思えぬ様子。姉弟が家にいる時、(このは)朝となく夜となく、ささいなことで大声をあげて叱りつけ、人が見ても気の毒だった。いかにもふびんだったが、隣の三軒にさえあいさつも交わさなかったので、止める人もいなかった。父が拘引された後、2人は差配人の雇人の女性が世話をしているという。
のちに、榮長は紀義と昔結婚した女性との間の子だが、のぶは別の女性の連れ子で、女性が紀義のもとに置いて姿を消したと分かった。他紙も10日付朝刊と11日付朝刊で逮捕を大きく扱ったが、このの名前などで不正確な内容が目立った。
その中で東朝(11日付)は唯一、容疑者の名前を「松平紀義こと本名・片桐常次郎」と表記している。関連の資料を見ても、「松平紀義」は徳川家ゆかりに見せるため本人が自称した可能性が強く、東朝の報道が正確なようだが、警察の正史である「警視庁史第1(明治編)」(1959年)や判決文なども「松平紀義」で統一されている。
駆け落ちしたものの…このの足跡
2人の経歴を詳しく報じたのは5月11日付朝刊の報知続報と時事新報で、微妙に内容が異なる。時事新報の記事を要約する。
御代梅このの生家は相応の資産のある農家で、このは一男三女の次女。家の仕事を手伝っていたが、元来勝気で「このような場所で朽ち果てたくない」と20年前、20歳の時に上京した。最初は質屋の「女中」に住み込んだが、出世の助けにならないと麹町区(現千代田区)の湯屋2階の「茶汲み女」に。そのうち、客の人力車夫と関係ができて駆け落ち。牛込区で所帯を持った。
しかし、生んだ女の子は病死。暮らしが立たなくなり、いったん2人でこのの郷里に帰ったが、再び上京して花屋を営むなどするうち、ささいなことから夫婦げんかのすえ別れた。その後、巡査や薪炭商の妻になったが長続きせず、元琉球王の邸宅内に住む琉球人の「妾」となり、さまざまな口実をもうけて多額の金を引き出し、資産をつくった。