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 そこを出てからは人力車夫とよりを戻し、再び花屋を経営。貯金を増やし、男児を生んだが、貧乏の間は隠れていた荒々しい気性と無類の強欲という生地が現れ、ついに離別した。

 以後は金に任せてぶらぶらしていたが、友人の友人として松平紀義と知り合い、貸した金の返済を紀義に依頼するなどして親しくなり、同居に至った。しかし、ほかに4人の愛人をつくるなど、身がおさまらなかったという。

松平紀義は本名ではない

 一方、松平紀義は明治24(1891)年、福島県大沼郡赤澤村の実兄宅を訪問。「元長崎県南高来郡嶋原村廣岡(現島原市)の士族・松平大和長男」とした寄留届を村役場に提出したが、現地に照会した結果、籍はないとの回答で、届けを却下した。

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 その後、兄の縁故を頼って新潟県中蒲原郡戸田村(須田村の誤りか)の呉服店に雇われ、同店の息子が家出して消息がなかったことから、娘の婿養子になって子どもも2人生まれた(時事新報はこの2人をのぶと榮長としているが誤り)。一説には、福島や新潟にいた時に既に三百代言をしていたともいわれる。

 しかし、呉服店の息子が戻ってきたため離縁され、80円(現在の約50万円ほど)の金を持って2人の子どもを連れて上京。小石川区の飯屋に住み込んだ。東京の事情も分かってきたので、飯屋をやめ、持っていた金を元手に高利貸しを始めるかたわら、本業の俗事談判(三百代言のこと)もしていた。

 松平紀義は本名ではない。実は片桐常之介で、松平信紀とも称している。普段から詐欺を目的とし、偽名が役に立つ日があるのではないかという思いのようで、常に松平の姓であることを誇って、明治維新前の戦いに手柄があったなどと真っ赤なうそを吹聴していた。

 その結果、自然と羽織の柄はいつも葵(あおい=徳川の家紋)の三つ、または五つの紋を付け、いかにも松平家の子孫のように装っていた。借金取り立ての談判の際は、「面倒だ」と懐からナイフを取り出して逆手に持ち、半分脅迫で金を受け取るのを得意としていたという。

 要するに、人をだまし、脅して金を巻き上げるのが“本業”だったということか。湯屋の2階の女性というのは、この「明治事件史」シリーズの「夜嵐お絹」にも登場したが、湯上りの男客の接待が表向きで、売春するケースもあった。加害容疑者の男も被害者の女も、どっちもどっち、すれっからしで「我利我利亡者」の似たもの同士だったようだ。